「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1247 2020/5/17

『Q: 偏見とは何でしょうか。どうやってそれを本当に克服できるでしょうか。あらゆる偏見から自由な心の状態はどんなでしょうか。
A: 偏見を克服できるでしょうか。何かを克服することはそれを何度も繰り返して再度征服することです。偏見を本当に克服できるでしょうか。あるいはこの克服は、単にひとつの偏見の、別のものでの置き替えに過ぎないのでしょうか? 確かに、私達の問題はどうやって偏見を克服するかではありません-なぜなら、そのとき、私達は単に置き替えを求めているに過ぎないからです。それは偏見の全過程を理解することです。偏見の包含するものは何であるか、単に言葉の上、心の言葉のレベルでなくて根本的に、深く。そのとき偏見から自由である可能性があります。しかしひとつの偏見を、あるいは種々の偏見を克服しようと努力しているなら、そのときあなたは単にあなたが偏見と呼ぶ苦痛、あなたが偏見と呼ぶ妨害物を克服しようとしているに過ぎません。

さて、偏見とはどういうことでしょうか。どういう時に偏見からの自由があるのでしょうか。どうやって偏見は生じるのでしょうか。一つの道は、明らかに、いわゆる教育を通してです。歴史の本は偏見に満ちています。あらゆる宗教文学はそれに満ちています-教え込まれた信念。そしてその信念は、それは子供の頃からつくり出され、組み立てられるのですが、それが偏見になります。あなたはこれであり、私はあれです。あなたはプロテスタントで、私はヒンドゥー教徒です。したがって、私の信仰とあなたの信仰は衝突します。あなたは私を改宗させよう、私を転向させようとします。そして私は同じ事をしようとしています。あるいは私達は「寛容」です。あなたはあなたの信仰を保ち、私は私のを保ちます。そして仲良くあろうとします。すなわち、私は私の偏見の要塞に住み、あなたはあなたの偏見の要塞に住みます。そして私たちはそれを大目に見、友達であろうとします。それは「寛容」と呼ばれますが、本当は不寛容です。それは友達であろうとすることの本当にもっともばかげた形です。どうして友達になれるでしょうか、どうして本当の愛情が持てるでしょうか。私は私の偏見の中に生きており、あなたはあなたの偏見の中に生きているなら。

それで、私達は偏見の種々の原因を知っています-故意に養成された無知は、教育を通じて、環境の影響を通じて、宗教などなどを通じて偏見をつくり出します。そして排他的でありたい、私達の信仰の中に保護されていたいという私達自身の欲望があります。確かに、どうやって偏見が生じるかは非常に明白です。そしてまた、種族や国家の見地で考えるのを私達は好みます。なぜならそれは、人々を個人的な人間として取り扱うよりも努力を要しないからです。あなたが偏見に満ちているとき、人々を取り扱うのはより容易です。その人たちをドイツ人、インド人、ロシヤ人、黒人、あるいは何にせよそう呼ぶ時、あなたは問題を解決したと思うのです。しかし一人一人の個人的な人を見ることは、多大の思考、骨折りが必要です。そして私たちはそうしたくないので、「さて、彼等をある名前で呼ぼう」と言い、それによって彼等を理解したと私達は思うのです。

それで、なぜ偏見が生じるか、どうやってそれらが私達自身の自己防衛のために作られるかを私たちは知ります。それは孤立の過程です。憎むこと、偏見を抱くこと、限定されていることはずっと容易です。そしてそれが私たちの大部分の現状です。あなたはこれやあの協会に属します。それは偏見の一形態です。あなたの経験が私のに優る、あるいは私のものと同じ様に良いとあなたは信じます。それゆえ、あなたの経験の中に引き止められます。こういったことすべては偏見の形、排除の形、あなたが非常に注意深く養成してきた自己防衛の形ではないでしょうか。どうやってそれらを克服できますか。そうするとき、あなたはそれらの置き換えを見出すでしょう。というのはあなたが偏見を持たないなら、あなたは極度に傷つき易く、敏感であり、ずっと多く悩むからです。それゆえ、私達自身を守るために私たちは壁を急いで建てます。自己投影されたものか、あるいは私達のために他の人によってつくり出されたもの、それを私たちは受け入れるのですが、そのどちらか。そして偏見を克服しようとすることは、もっと快適で、もっと教育的で、もっと洗練されている他の防護物を見つけることです。しかしそれらはなお偏見です。

それゆえ、偏見から自由であることは不確実の状態の中に生きることです。不安定の状態の中に生きることです。さて、不安定とはどういうことか理解しなければなりません。明らかに、道理に合った物理的な安全がなければなりません。さもなければ生きることがそもそも不可能です。しかしその物理的な安全は、あなたが心理的安全を求めているとき否定されるのです。そしてそれが私たちがしていることです。私たちが心理的に安全であろうと、国家主義を通じ、信念を通じ、社会の特定の形、左翼あるいは右翼を通じて望むとき-外部の不安定をつくり出すのは、この心理的欲望、確かであろう、安全であろう、頼っていようというこの内的欲望です。そしてそれは心が自己防衛的反応、内的な自己防衛的反応から自由であるときのみです-そのときのみ、偏見から自由である可能性があるのです。

「偏見から自由である心の状態はどんなでしょうか」が次の質問です。なぜあなたは知りたいのでしょうか。あなたはそれを経験するために、その結果それを標準に、達成すべき何かにするために知りたいのだと思います。あるいはあなたは自由であるとはどういうことか、心が自己防衛的な反応から自由であるとはどういうことか理解したいのです。それを見出すためには、あなたはそれを直接経験しなければならないのではないでしょうか-単に私の言葉や他人の言葉を聞くのではなく。すなわち、あなたはあなた自身の思考と感情の過程に気づいていなければならないのではないでしょうか、あなたが、たまたまそれを好むときだけでなくて何時も。それは次のことを意味します。すなわち、偏見から自由であるためには-偏見は養成されたにせよ、本能的にもたらされたにせよ、自己防衛的反応です-、確かに、あなた自身の全体の過程についての気づきがなければならないということです。だが偏見から自由である心の状態はどうであるかについて思索することは、確かに無駄ではないでしょうか。それゆえ、私たちがすることができるすべては、心が自由であるときの心の状態はどうであるか思い巡らすことではなく、私達自身を理解することです。そして私達自身を理解するためには、その中に強制のない、正当化や非難のない気づきがなければなりません-人はどんな形の恐怖もなしに、気楽に気づいていなければなりません。その気づきの中に思考と感情の運動の展開があります。そしてそのとき、心が静かなとき-静かにさせられるのではなく-、始めも終りもないものを発見する可能性があるのです。』(K)


私の学習経過:

『Q: 偏見とは何か。どうやって克服できるか。あらゆる偏見から自由な心の状態は。
A: 偏見を克服できるか。偏見の全過程を理解する・・偏見から自由である可能性。

偏見はどうやって生じるのか。
教育・歴史・宗教文学は偏見に満ちて、教え込まれた信念は、子供の頃から偏見になる。私とあなたの信仰は衝突。

排他的、信仰の中に保護されたいという自身の欲望。種族や国家の見地で考える。

なぜ偏見が生じ、自身の自己防衛のために作られるか・・孤立の過程。憎む、偏見、限定は容易―現状。
これやあの協会に属し・・偏見の一形態。経験が優る・・すべて偏見、排除、自己防衛の形ではないか。

偏見からの自由は不確実・不安定の中に生きること。心理的安全を求めているとき否定される。

心理的に安全で、国家主義、信念を通じ、社会の特定の形―左翼・右翼を通じて望むとき-外部の不安定は、心理的欲望、確か、安全、頼っていようという内的欲望。心が自己防衛的反応から自由であるときのみ-偏見から自由である可能性がある。

なぜあなたは知りたい・・経験、達成すべき何かにするために知りたいのだ。自由、自己防衛的から自由とは・・見出すには、直接経験しなければならない-他人の言葉でなく。

自身の思考と感情の過程に気づいていなければならない。好むときだけでなく何時も。偏見から自由であるには、自身の全体の過程の気づきがなければならない。

私たちができるすべては、心が自由であるときの心の状態はどうであるか思い巡らすことでなく、私達自身を理解すること。

私達自身を理解するには、強制・正当化・非難ない気づき-どんな形の恐怖なしに。気づきの中に思考と感情の運動の展開がある。心が静かなとき-静かにさせられるのではなく、始めも終りもないものを発見する可能性がある。』


偏見は、子育て・教育・知識・経験・宗教によって形作られ、固定化し・・自己の外部を見る目を曇らせて、より強化された観念・信念は、目的・地位・達成・成功のために、他者との対立・争い・暴力を生み出す。社会の破壊の根元には・・指導者の姿が見えてくる。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1247 2020/5/18