「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[3] 1949年10月16日】  M1255  2021/6/27

『 そこで、なぜ観念と行為の間のこの分離があるのでしょうか。それを理解できるなら、たぶん私達は葛藤を根本的に終らせることができるかもしれません。なぜなら、葛藤は明らかに理解への道ではないからです。私があなたと口論するなら、私があなたと、妻と、社会と、近くても遠くても隣人と葛藤の中にあるなら、理解があることはできません。理解が定立と反定立の間の、対立物の間の格闘を通じて生じるでしょうか? 総合は葛藤を通して生じるのでしょうか? それとも、葛藤がないときに理解があるのでしょうか? その理解を私達は行為を通して転写しようとします。それから再び葛藤が起こります。違ったふうに述べれば、創造性があるとき、私たちがその創造的な感覚を持つとき、格闘はありません。格闘の不在があります。それは偏見、条件付けのすべてを伴なう、自己、私、がそこにいないという事です。その状態のなかに、自己がいないとき、創造性があります。そしてその創造的な感覚、その創造的な状態を、私達は音楽、絵画、あるいはあなたの望むものでいいのですが、それを通して行為の中に表現しようとします。そのとき格闘が始まります-認められることを求める欲求、などなど。

確かに、創造的な状態は格闘を要求しません。それどころか、格闘があるとき、何の創造的な状態もありません。自己、私、がまったく不在のとき、そのときあの創造的な状態が生じる可能性があるのです。そして観念が優位を占める限り、格闘があるに違いありません。葛藤があるに違いありません。すなわち、観念にしたがって行為を形作ることは葛藤を促進するに違いありません。それゆえ、なぜ観念が私達の心の中で優位を占めるか理解できるなら、そのとき、たぶん、私達は違ったふうに行為に接近できるでしょう。

私たちの大抵はどうやって観念にしたがって生きるかにかかわっています。私達は最初に観念を持ちます-どうやって高尚であるか、どうやって善良であるか、どうやって精神的であるか、その他もろもろ-そして次にそれにしたがって生きようとします。なぜ私たちはこうするのでしょうか? 私たちは最初に精神的なパターンを確立し、それを観念、あるいは理想と呼びます。そしてそれに従って生きようとします。なぜ? 観念形成の全過程は、『私(me)』、私、自己を通じてもたらされるのではないでしょうか? 自己、『私』、は観念ではないでしょうか? 『私』の観念から離れたどんな『私』もありません。『私』がパターンを作り出します。『私』は観念です。そしてその観念にしたがって私たちは生きます。行動しようとします。

それゆえ、観念は主に自己の重要さの結果ではないでしょうか? そして、『私』と『私のもの』の重要さ、振る舞いのパターンを確立して、私たちはそれに従って生きようとするのです。したがって観念が行為を制御します。観念が行為を妨げます。例として、寛容、完全な寛容-頭の寛容でなくて、ハートの寛容を取り上げましょう。もしもひとがそれに従って生きるなら、それは非常に危険なのではないでしょうか? もしも人が完全に寛容に行動するとしたら、それは現存する標準とのあらゆる種類の摩擦につながります。それゆえ、観念が入り込み、寛容を制御します。そして、ハートの寛容にしたがうより、寛容の観念にしたがって生きることがより安全です。

それゆえ、観念が優位を占めるとき、私たちが安全、無事、快適さ、排除、分離を求めていること-それゆえいっそうの摩擦をつくり出していることが明らかです。なぜなら、分離してはどんなものも生きられないからです。生きていることは関係していることです。観念は分離をもたらします。行為はもたらしません。そして私たちの葛藤は常に観念と行為の間にあります。そして私は思うのですが、私たちが観念形成のこの過程を理解できるなら、私達自身を、表面的でなく 私達自身の全過程を、無意識的なもののみならず意識的なものも理解できるなら、そのとき、たぶん、私たちはこの葛藤を理解するでしょう。何といっても、葛藤は『私』が重要なので起こるのです-国と、特定の信念と、特定の名前や家族と同一化した『私』。それがすべての葛藤の源ではないでしょうか?-なぜなら『私』はいつも分離、排除を求めているからです。排除の観念に基づいた行為は葛藤を不可避的に作り出すに違いなく、その葛藤から私たちは逃避しようと努めるのです。したがって葛藤は増やされるのです。

それゆえ、葛藤を理解するためには、自分の考える過程全体を知ることが、そして現実に、日常生活の中で、いかに私たちが行為を観念に近づけようとしているかに気づくことが重要であると私には思われます。そして、ひとは観念なしに生きることができるでしょうか? ひとは自己なしに生きることができるでしょうか? 実際にも基本的にもそれは次のことに到達します-ひとはこのぞっとするように醜い、葛藤している世界の中で、『私』の思考なしに生きることができるでしょうか? 理論的にではなく現実的にこれに答えることができるのは、『私』の過程を、何が『私』を構成するのかを理解するときだけだと私は思います。これらのねじれたやり方、矛盾、否定、近似、すべてが観念の自己投影のパターンに属することをひとは見ます。それゆえ、自分自身をすっかり知ることの中で-意識のどれか一つのレベルにおいてではなく、絶え間なく進行している全体の過程として-それに気づいていることの中で、自己からの自由が確かに生じます。そしてそのときのみ、心が静かであることができます。

自己が不在のときのみ、心が静かであり、それゆえ永遠であるものを理解することができる、受け取ることができる可能性があるのです。しかし永遠のものの絵を描くこと、それの観念を心に抱くこと、それについての信念にしがみつくことは実際には自己投影です。それは単に錯覚にすぎません。それは何の実在性も持っていません。しかし、始めも終りもないものがあるためには、自己の作用、作り事、投影は明らかに、すっかり止まなければなりません。そしてその自己投影の停止が瞑想の始まりではないでしょうか?-なぜなら自分自身を理解することが瞑想の始まりであるからです。そして瞑想なしに自己を理解する可能性はありません。自己の過程を理解することなしに、思考のための基盤はありません。正しい思考のための基盤はありません。単に行為を観念や理想に近づけることはまったく徒労です。ところが、行為の中の私達自身を理解できるなら、それは日常生活の中での関係、すなわち自分の妻、自分の夫との関係、自分の召し使いへの話し方、紳士気取り、国家主義、先入観、毎日の生活の貪欲と羨望です。より高いレベルに位置した自己ではありません。それはなお思考の領域内にあり、したがってなお自己の一部です-関係の中のこの行為すべてに気づいていることが瞑想の始まりです。そして自己のこの活動を理解することの中に、確かに、静けさがあります。静かにさせられたのではなく心が本当に静かなときのみ、強いられたのではなく、順応しているのでなく、静かなときのみ-そのときのみ、永遠のものを発見する可能性があります。』(K)


私の学習経過:

『 なぜ観念と行為の間の分離があるのか。私が隣人と葛藤の中にあるなら、理解はできない。観念にしたがって行為を形作ることは葛藤を促進する。なぜ観念が私達の心の中で優位を占めるか理解できるなら、違ったふうに行為に接近できる。

私達は最初に観念を持ち-どうやって高尚、善良、精神的であるか-それにしたがって生きようとする。自己、『私』は観念です。観念にしたがって生き、行動します。

観念は自己の重要さの結果。『私』と『私のもの』の重要さ、パターンを確立、従って生きようとする。観念が行為を制御し、観念が行為を妨げる。

観念が優位を占めるとき、安全、無事、快適さ、排除、分離を求めていっそうの摩擦をつくり出していることが明らか。分離してはどんなものも生きられない。生きていることは関係していること。観念は分離をもたらす。行為はもたらさない。葛藤は常に観念と行為の間にあり、観念形成のこの過程を理解できるなら、私達自身の全過程を、この葛藤を理解する。

葛藤は『私』が重要なので起こる-国、特定の信念、名前や家族と同一化した『私』・・すべての葛藤の源。『私』はいつも分離、排除を求めている。排除の観念に基づいた行為は葛藤を不可避的に作り出し、葛藤から逃避しようと努め、葛藤は増やされる。

葛藤を理解するには、自分の考える過程全体を知る・・現実、日常生活の中で、いかに私たちが行為を観念に近づけようとしているかに気づくことが重要。

ひとは観念なしに生きることができるか。自己なしに生きることができるか。自分自身をすっかり知ることの中で、絶え間なく進行している全体の過程に気づいていることの中で、自己からの自由が確かに生じる。そのときのみ、心が静かであることができる。

自己が不在のときのみ、心が静かで、永遠のものを理解、受け取る可能性がある。始めも終りもないものがあるためには、自己の作用、作り事、投影は、すっかり止まなければならない。

自己の過程を理解することなしに、思考のための正しい思考のための基盤はない。単に行為を観念や理想に近づけることはまったく徒労。

静かにさせられたのではなく心が本当に静かなときのみ、強いられ、順応しているのでなく、静かなときのみ、永遠のものを発見する可能性がある。』(K)


社会に適応するように育てられ、目的・努力・達成の観念が教育・成長の基本になって、私たちは観念である言葉・過去の記憶に縛られ、現在・事実が見えなくなってしまうようです。人間の歴史も、現在の社会や世界も、お互いの観念・欲望が対立し、争い、破壊を繰り返している。