「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[3] 1949年10月16日】  M1256  2021/11/7

Q: 何が、あなたによれば、私たちを解放する真実なのか、私たちに話してくれますか。「真実があなたに生じるのです。それを捜すことはできません」というあなたの声明はどういうことでしょうか。

A: 確かに、何が虚、何が錯覚であり、何が無知であるのか、理解することによって真実が生じるのではないでしょうか。それを捜す必要はありません。なぜなら思考が、あなたがそれで捜している道具であるからです。私が欲張りで妬み深く、偏見に満ちており、そして真実を捜そうとするなら、明らかに私の真実は貪欲、羨望、偏見の結果であるでしょう-したがってそれは真実ではありません。私がすることのできるすべては、何が虚偽であるかを見ること、私が条件づけられていること、欲張りであること、妬み深いことに気づいていることです。それが私がすることのできるすべてです-それに無選択に気づいていること。そのとき、私がそのように気づいており、それゆえ貪欲から自由であるとき、真実が生じます。しかし私達が真実を探しているなら、結果は明らかに錯覚であるでしょう。どうして真実を探すことができるでしょうか。真実は虚偽に捕らえられている心にとって未知の何かであるに違いありません-そして私たちはそうなのです。なぜなら私たちは生理的のみならず心理的にも条件づけられているからです。そして条件づけられた心は、それが何をしようが、とても不可測のものを測ることはできません。

これらはただの言葉ではありません。あなたが本当に正しく聞こうとしているなら、その真実を見ることができます。どうして私が、私が信念によって、恐怖によって、国家主義によって、偏見によって、そして無数のやり方で貪欲と羨望によって条件づけられているとき-どうして私が真実を見ることができるでしょうか。私がそうするなら、それは自己投影であるでしょう。自己が捜し求めるものは、明らかにそれ自身の産物であり、したがって真実ではありません。そしてこの真実、私がたった今言ったことの真実を見ることは既に解放する過程ではないでしょうか-単にそれを見ること、真実であるものを貪欲は見出せない、羨望は見出せないことに気づくことが。単にそれを観察すること、それを見ること、静かにそれに気づいていることが貪欲から解放するだけでなく、何が真実であるかの理解をもたらすでしょう。

それゆえ、真実を捜し求めようとしている人たちは明らかに錯覚に捉えられるでしょう。したがって、真実があなたに生じなければなりません。それを追い回すことはできません。それを追いかけることはできません。なぜなら、結局、私たちがみんな望んでいるのは何でしょうか。私たちは満足を望んでいます。慰安を望んでいます。内的な安全、平和を望んでいます-そしてそれが私たちの捜し求めていることです。私たちはそれを真実と呼びます。それに名前を与えます。したがって、さまざまな形で、さまざまなレベルで、私たちが捜し求めているものは満足であり、真実ではありません。真実は、満足を求める、安全を求める欲望が終ったときのみ生じ得るのです。それは極めて困難です。そして私たちの大抵は怠惰、不精なので、私たちは真理を捜し求める振りをし、協会や組織をその回りに作ります。

そこで、私たちがなし得ることのすべては、私たち自身の性向、欲望、虚栄心に気づいていることです-あなたがそれらをどのレベルに置くかは問題ではありません。そのすべてに気づいていること、そしてそれから自由であること、それは自己、『私』から自由であるということです。そのとき、あなたは真実を捜し求める必要はありません。そのとき真実があなたに生じるでしょう。なぜなら場がまさにあるからです-静かな、それ自身の興奮によってかき乱されていない心。そのような心は受取ることが出来ます。それは否定的に気づいている、受動的に気づいているに違いありません-それは再びとても困難です。なぜなら心は何かでありたいからです。それは結果、達成を望みます。そして一つの方向で失敗したなら、ほかの方向で成功を求めます。その成功を真実の探求と呼びます。ところが、真実は未知のものです。それは瞬時瞬時発見されなければなりません。何かの抽象の中でなく、何かの分離した行為の中ではなくて、私たちの日常の生活のあらゆる瞬間のなかに。虚偽を虚偽として見ることは真実の始まりです-私たちの発言の中の虚偽、私たちの関係の中の虚偽、ちょっとした性向、ちょっとした虚栄、私たちがふける残酷。そのすべての虚偽の真実を見ることが、真実であるものの知覚の始まりです。

しかしほら、私たちの大抵はそのように気づいていることを望まないのです。それは退屈です。私たちはむしろ何かの錯覚の中に、何かの信念の中に逃避したいのです。その中に孤立と慰めが見出せるのです-それははるかに簡単です。そしてその孤立の中で、私たちは真理を求めていると言うのです。孤立の中で真実を見出すことはできません。心理的に安全で、確かであって、真実の偉大な不確かさが生じるとはできません。それゆえ、私たちのなし得るすべては、私たちがほんとうに真剣で、真面目に関心を持っているなら、ものごと、人々、観念との私たちの関係を理解することによって、真実に生じる機会を与えることです。そのとき、理解が自由をもたらします。そしてその自由の中にのみ、実在があり得るのです。』(K)


私の学習経過:

Q: 何が、私たちを解放する真実なのか、話してくれますか。「真実があなたに生じるのです。それを捜すことはできません」というあなたの声明はどういうことでしょうか。

A: 何が虚偽、錯覚、無知か、理解によって真実が生じる。私の真実は貪欲、羨望、偏見の結果-真実ではない。私ができるすべては、何が虚偽か、私が条件づけられ、欲張りで、妬み深いことに-無選択に気づいて、貪欲から自由であるとき、真実が生じる。

私達が真実を探しているなら、結果は錯覚。どうして真実を探すことができるか。真実は虚偽に捕らえられている心にとって未知の何か。私たちは生理的・心理的にも条件づけられている。条件づけられた心は、不可測のものを測ることはできない。

正しく聞こうとするなら、真実を見ることができる。信念、恐怖、国家主義、偏見、貪欲と羨望によって条件づけられているとき-真実を見ることができるか。自己が捜し求めるものは、自身の産物であり、真実ではない。真実を見ることは既に解放する過程ではないか。羨望は見出せないことに気づくこと。単にそれを観察する、見ること、静かに気づいていることが貪欲から解放するだけでなく、何が真実であるかの理解をもたらす。

真実を捜し求める人たちは錯覚に捉えられる。私たちは満足、慰安、内的な安全、平和を望んで、捜し求めるものは満足であり、真実ではありません。真実は、満足、安全を求める欲望が終ったときのみ生じ得る。極めて困難。

私たちがなし得るすべては、自身の性向、欲望、虚栄心に気づいて、自己、『私』から自由であること。真実を捜し求める必要はなく、真実があなたに生じるでしょう。なぜなら場がまさにあるから-静かな、自身の興奮にかき乱されていない心は、受取ることが出来ます。否定的に気づいて、受動的に気づいている-とても困難。

なぜなら心は何かでありたいから。結果、達成を望み、一方向で失敗したら、ほかの方向で成功を求める。ところが、真実は未知、瞬時瞬時発見されなければならない。何かの抽象、分離した行為の中ではなく、私たちの日常の生活のあらゆる瞬間のなかに。虚偽を虚偽として見ることは真実の始まり-発言の中の虚偽、関係の中の虚偽、性向、虚栄、残酷。そのすべての虚偽の真実を見ることが、真実の知覚の始まり。

私たちの大抵はそのように気づいていることを望まない。それは退屈。何かの錯覚、信念の中に逃避したい。その中に孤立と慰めが見出せるのです-簡単。その孤立の中で、私たちは真理を求めていると言う。孤立の中で真実を見出すこと、心理的に安全で、確かで、真実の偉大な不確かさが生じるとはできない。

私たちのなし得るすべては、真剣で、真面目に関心を持っているなら、ものごと、人々、観念との私たちの関係を理解することによって、真実に生じる機会を与えることです。そのとき、理解が自由をもたらし、その自由の中にのみ、実在があり得るのです。』(K)


私たちが求めるものは・・心の安らぎ、喜び、満足、確かなもの、生活や人々との交流に求めるお互いの理解と歓び・・そして幸福感とも言える何かではないか。

だが、Kは・・
何が虚偽で、何が真実なのか・・
欲張りで、妬み深いことに無選択に気づいて、貪欲から自由なとき、真実が生じる。

単にそれを観察する、見ること、静かに気づいていること・・が貪欲から解放する、何が真実であるかの理解をもたらす・・と言う。

さらに・・
満足、安全、平和を望んで、捜し求めるものは満足であり、真実ではない。真実は、満足、安全を求める欲望が終ったときのみ生じ得る・・極めて困難・・・と言いますが、これが理解できるかどうか・・・。