「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[3] 1949年10月16日】  M1258  2022/10/5

『 Q: どうやって人は死の絶え間のない恐怖から逃れたらいいでしょうか。

A: 恐怖をつくり出しているのは何でしょうか。なぜ人は死を恐れるのでしょうか。よろしければ、これを実験しましょう-私が以前に言ったことだけでなくて、これもまた。ほら、私たちの多くが死を恐れる一方、またなぜかを知っています。明らかに私たちは終わりたくないのです。私たちは身体が死ぬに決まっていることを、絶えず使われている他のどんなものとも同じ様に消滅することを知っています。しかし、心理的に、私たちは終りたくないのです。なぜ。

なぜなら私たちはどうしても終ることを望まないからです。私たちは数え切れないほど多くの理論を合理化しました。われわれはこれからも継続する、生まれ変わりがある、ある種の自己が継続する、などなど。しかしなお、これらの合理化された信念、確信、確定にもかかわらず、恐怖があります。なぜ? それは私たちが未知のものの確実性を望むためではありませんか。私たちは死の後、何があるか知りません。私たちは私たちの性質のすべてを伴なって、業績のすべてを伴なって、身元確認のすべてを伴なって継続したいのです。永続するものを求め、それを不死と呼びます。名前、財産、所有物などを通して、この世界の中に永続性を求めます-それは私たちがいつもしている明らかな事です。そしてまた思考、感情のもうひとつの領域の中で-心理的世界、精神的な世界の中で、継続することを望むのです。

継続するものは何でしょうか。観念、思考ではないでしょうか。名前としての、特別の認定された個人としてのあなた自身という観念-それはなお観念です。それは記憶です。それは言葉を意味します。それゆえ、思考、心は、それ自身を記憶、言葉、名前として認定して、継続しようと望んでいるのです。確かに、私たちの大部分が様々なやり方でそれに執着しているのではないでしょうか。私がより年をとるにつれて、死の恐怖を伴なって人生を振り返ったり、将来を思ったりします。それゆえ、私たちは何等かの形で継続したいのです。そして、その継続が不確かなので、私たちは恐れるのです。家族や子供を残すことを恐れてはいません。それはただの言い訳です。現実には、あなたは終ることを恐れているのです。

さて、継続するもの、継続性を持つもの-それは創造的であり得るでしょうか。継続するもののなかに新生があるでしょうか。確かに、終るものの中にのみ新生があります。終りがあるところ、よみがえりがあります-しかし継続するものの中にはありません。私が、私がそうであるままに、この生の中でそうであったように、私の無知、偏見、愚かさ、錯覚、記憶、愛着のすべてを伴なって継続するなら-私は何を持っているのでしょうか。それにもかかわらず、それは、私たちがそんなにもしつっこくそれに執着するということです。

確かに、終ることのなかに新生があるのではないでしょうか。新しいものが生じるのは死の中にだけです。私はあなたに慰めを与えていません。これは信じたり、考えたり、知的に調べて受け入れるべき何かではありません-というのは、そのとき、それを、あなたがいま生まれ変わりや、来世での継続等を信じるように、別の慰安にしてしまうだろうからです。しかし現実の事実は、継続するものはよみがえり、新生を持たないということです。したがって、毎日死ぬことのなかに新生があります。よみがえりがあります。それが不死です。死の中に不死があります-あなたが恐れる死ではなくて、あなたが『私』として同一化する、以前の結論、記憶、経験の死。毎瞬『私』が死ぬことの中に永遠性があります。不死があります。経験されるものがあります-あなたが生まれ変わりやその種の代物についてするように、思索したり講義すべきものではなく。あなたが『私』として終るときのみ、あなたが家族に、財産に、あなたの観念に執着するのを止めるとき-そのときのみ、確かに不死があるのです。それは無感覚に、冷淡に、あるいは無責任になるということではありません。

あなたがもはや恐れていないとき、なぜなら毎瞬終りがあり、それゆえ新生があるからですが、そのとき、あなたは未知に向かって開いています。実在は未知です。死もまた未知です。しかし、死を美しいと呼ぶこと、それがなんと素晴らしいかと言うこと、なぜかというと私たちは来世に継続するだろうからですが、そのナンセンスのすべては実在性を持っていません。実在性を持っていることは、死をそうである通りに見ることです-終り。その中に継続性ではなく新生、よみがえり、がある終り。というのは、継続するものは衰退するからです。それ自身を再び新しくする力を持っているものは永遠です。しかし愛着した、とりつかれた心は、決してそれ自身を再び新しくすることはできません。したがって、そのような心は未知を、未来を恐れます。恐怖は絶え間のない新生、それは絶え間のない死ということですが、がある時のみ止みます。しかし私たちの大部分はそのように死ぬことを望みません。私たちは家具と財産に、信念に、いわゆる愛した人に愛着していたいのです。私たちは私たちの葛藤と共に、経験と共に、愛着と共に、その状態のなかに継続することを望みます。そして、そのすべてが脅かされるとき、私たちは恐れます。それで死について書かれた無数の本があります。あなたは生きることより死に、より関心があります。ところが、生きることを理解することの中に、すなわち、絶え間ない関係の中のあなた自身を理解することの中に、虚偽を虚偽として見ること、したがって、あなたが愛着している物事、信念、記憶に対して、理論の中ではなくて現実に、毎瞬死ぬことの中に-そのときのみ、その中に死のない新生があるのです。』(K)


私の学習経過:

『 Q: どうやって人は死の絶え間のない恐怖から逃れたらいいでしょうか。

A: 恐怖をつくり出すのは何・・なぜ人は死を恐れる。私たちは終わりたくない・・どんなものとも同じ様に消滅することを知っている。心理的に、私たちは終りたくない。

私たちは数え切れない多くの理論を合理化、自己が継続。合理化された信念、確信、確定にもかかわらず、恐怖。なぜ? 未知のものの確実性を望む・・死の後、何があるか知らず、性質、業績、身元確認を伴なって継続。永続、不死ー名前、財産、所有物を通して、世界に永続性を、心理的、精神的な世界で、継続を望む。

継続するものは何か。観念、思考ではないか。名前、特別認定された自身という観念-それはなお観念・記憶・言葉を意味。思考、心は、自身を記憶、言葉、名前として認定し、継続を望む。私たちの大部分が執着。年をとるにつれ、死の恐怖を伴なって人生を振り返り、将来を思い継続したい・・不確かなので、あなたは終ることを恐れている。

継続する、継続性を持つもの-は創造的か。新生か。確かに、終るものの中にのみ新生がある。終りがあるところ、よみがえりがある-継続の中にはない。私がそうであるままに、私の無知、偏見、愚かさ、錯覚、記憶、愛着のすべてを伴なって継続するなら-私は何を持っているのか。にもかかわらず、私たちがしつっこく執着する。

終るなかに新生がある。新しいものが生じるのは死の中にだけ。信じ、考え、知的に調べて受け入れる何かではない-生まれ変わり、来世の継続を信じる慰安にしてしまうから。現実の事実は、継続するものは新生を持たない・・毎日死ぬことのなかに新生が、よみがえりがある・・それが不死。死の中に不死がある-あなたが恐れる死ではなく、あなたが『私』として同一化するー以前の結論、記憶、経験の死。毎瞬『私』が死ぬことの中に永遠性が、不死が、経験されるものがあり-あなたが生まれ変わり、思索・講義すべきものではなく。あなたが『私』として終るときのみ、家族に、財産に、あなたの観念に執着するのを止めるときのみ、確かに不死がある。無感覚に、冷淡に、無責任になることではない。

あなたが恐れていないとき、毎瞬終りがあり、それゆえ新生があるから、未知に向かって開いている。実在は未知。死もまた未知。しかし、死を美しいと呼ぶ、なんと素晴らしいか、私たちは来世に継続するだろうから、そのナンセンスのすべては実在性を持たない。

実在性を持つことは、死をそうである通りに見ること-終り。その中に継続性ではなく新生、よみがえり、がある終り。というのは、継続するものは衰退するから。それ自身を再び新しくする力を持つものは永遠。しかし愛着した、とりつかれた心は、決してそれ自身を再び新しくすることはできない。その心は未知、未来を恐れる。

恐怖は絶え間ない新生、絶え間ない死ですが、ある時のみ止む。しかし私たちの大部分はそのように死ぬことを望まない。家具と財産に、信念に、愛した人に愛着していたいのです。私たちは私たちの葛藤、経験、愛着と共に、その状態のなかに継続を望む。そのすべてが脅かされるとき、私たちは恐れる。死について書かれた無数の本があり、あなたは生きることより死に、より関心がある。ところが、生きることを理解する中に、絶え間ない関係の中のあなた自身を理解する中に、虚偽を虚偽として見ること、したがって、あなたが愛着している物事、信念、記憶に対して、理論の中ではなくて現実に、毎瞬死ぬことの中に-そのときのみ、その中に死のない新生があるのです。』(K)


私の物、考え、目的、努力して・・達成・成功した中に、獲得した物・地位・財産、身近な他者もいる。獲得・所有の中に願望・欲望があり、支配・暴力につながる。

いま日本で、世界で起こっていることを見るとき・・人間は、長い歴史を積み重ねて、どこに向かっているのか・・科学技術の発展、政治、国連、オリンピック、文化・文明、芸術、教育・・。

だが、貧富の格差、民族の争い・・地球資源、環境、海と空・・温暖化・・生き物たちの生命の危機・・・。
学問の発達や歴史を重ねても・・いつまでも終わりのない戦争・・・。
となると、人間そのものに問題が・・原因が・・・としか考えられなくなる。
人間は地球を、生き物を破壊して生きるのか・・終わることなく。