「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[3] 1949年10月16日】  M1254  2021/2/10

『 私は思うのですが、複雑なもの、そして特に心理的問題を理解するためには非常に静かな心、静かな、しかし強いられた静かさではない心を必要とするということはかなり明白です。平和で、静かであり、それゆえ複雑な問題とその答えを直接に理解することができる心。

この心の静かさを妨害するものは明らかに葛藤です。私たちは大抵このような騒ぎの中にあり、非常に多くのものごとを案じ、人生、死、安全、私達の関係を心配しています。絶え間のない心の動揺があります。そして当然、そんなに動揺した心が、心理的問題のみならず、常に増加する社会の問題を理解することは極めて困難です。そして問題を完全に理解するためには、静かな心、偏っていない心、自由であり、静かであり、問題がそれ自身をあらわにするままに、それ自身を明らかにするままにしておくことのできる心がなければならないということが不可欠ではないでしょうか。そして、葛藤があるとき、そのような静かな心は不可能です。

さて、何が葛藤をつくるのでしょうか。なぜ私たちはこのような葛藤の中にあるのでしょうか。私達一人一人が、それゆえ社会が、それゆえ国家と全世界が。 なぜ。何から葛藤が起こるのでしょうか。葛藤が止むとき、明らかに平和な心があり得ます。しかし葛藤に捕らえられている心は平静ではあり得ません。そして平静、ある平和の感覚を望んで、私たちは葛藤からあらゆる種類の手段を通じて逃避しようとします-社会奉仕、何かの儀式や 精神的その他の何かの活動への没頭。しかし、明らかに、逃避は錯覚に、いっそうの葛藤に通じます。逃避は孤立に通じるだけです。したがってより大きな抵抗に通じます。そしてもしも逃避しないなら、あるいは、もしも逃避に気づき、したがって葛藤の過程を直接理解できるなら、そのときたぶん心の静かさがあるでしょう。

そこで平静な心が必要であるということをわかることが絶対必要だと私は思います-しかし強いられた、閉じて孤立の中に留まる平静ではありません。一つの特定の観念に執着した、したがってその観念に、信念に閉ざされた、押さえ込まれた平静ではありません。そのような平静は実在ではありません。それは死です。なぜならその自己閉鎖した孤立の中に創造的な過程はないからです。

それゆえ、もしも私達が葛藤の過程、そしてどうやってそれが起こるかを理解できるなら、そのとき、たぶん自由、静かである心の可能性があるでしょう。しかし、葛藤を理解する中での難しさは私たちの大抵が、それから逃げることに、葛藤を超えることに、それからの出口を見つけることに、その原因を見つけることに非常に熱心であるということです。単に原因を探すこと、あるいは葛藤の原因を発見することが葛藤を解決するだろうとは私は思いません。しかし、葛藤の全体の過程を理解することが、心理的にも生理的にも、あらゆる観点から葛藤を見ることができるなら、何の非難や正当化もなしに静かに調べる忍耐を持つことができるなら-そのとき、たぶん葛藤を理解することができるでしょう。

結局、葛藤は、何かであろう、いまあるものとは異なっていようという欲望を通して起こるのではないでしょうか。いまあるものとは異なった何かであろうとする、この絶え間ない欲望は葛藤の仕方の一つです。それはいまあるもので満足すべきだということではありません-人は決してそうではありません。しかしいまあるものを理解するためには、私たちは、いまあるものと異なった何かであろうというこの欲望を理解しなければなりません。私は何かです-醜い、貪欲である、妬みぶかい-そして私はほかの何か、いまあるものの反対物であるように望みます。確かに、それは葛藤の原因の一つです。これらの対立し、矛盾した欲望、それらから私達は成り立っているのです。

私は、単に葛藤を見ていること、その過程に気づいていることはそれ自体解放することであると思います。すなわち、何かの摩擦なしに、何かの選択なしに気づいている、単にいまあるものに気づいているなら、そしてまた、いまあるものから自己投影の理想の中に逃げようとする欲望にも気づいているなら-そしてすべての理想は自家製であり、それゆえ虚構、非実在です-そのすべてに単に気づいているなら、そのとき、その気づきそのものが心の平静をもたらすでしょう。そしてそのとき、あなたはいまあるものと進むことができます。そのとき、いまあるものを理解する可能性があります。

しかし、確かに、葛藤は対立物の間の単なる摩擦よりもっとずっと意義深いのです。葛藤は行為を観念に近づけることを通して起こるのではないでしょうか。私達は常に行為を信念に、理想に、観念に近づけようとしています。私は私のあるべき姿、国のあるべき姿という観念を持っていて、その理想にしたがって生きようとします。したがって、観念と行為に橋を架けようとする意図があるとき葛藤が起こります。しかし、観念と行為に橋を架けることができるでしょうか。行為は実在です。現実です。そうでないですか? 行為なしには私は生きることができません。しかしなぜ私は行為を観念に従わせようとしなければならないのでしょうか。観念は行為よりもっと実在でしょうか? 観念は行為より より多くの実質を持っているでしょうか。観念は行為より より真実でしょうか。それにもかかわらず、私達自身を見守るなら、私達のすべての行為は観念に基いています。私たちは最初に観念を持ち、それから行為があります。稀にのみ、自発的で、自由な行為が、それを取り巻く観念なしにあります。』(K)


私の学習経過:

『 複雑・心理的問題を理解・・強いられた静かさでない心が必要・・妨害は葛藤・・人生、死、安全、関係を心配。絶え間ない心の動揺・心理、増加する社会問題の理解は極めて困難。

問題を完全に理解するには、静かな、偏っていない心、自由で、静かで、問題が自身をあらわに、明らかにするままにする心が不可欠、葛藤があるとき、静かな心は不可能。

何が葛藤をつくる・・社会、国家・全世界が。あらゆる手段-社会奉仕、儀式・活動への没頭で逃避は、いっそうの葛藤・孤立に通じるだけ。逃避に気づき、葛藤の過程を直接理解できるなら、心の静かさがある。

平静な心が絶対必要-強いられ、孤立・観念に執着、信念に閉ざされた平静ではない。自己閉鎖した孤立の中に創造的な過程はない。

葛藤の過程を理解できるなら、自由、静かである心の可能性が。あらゆる観点、非難や正当化なしに静かに調べる忍耐を持つなら-葛藤を理解できる。

葛藤は、何かであろう、異なっていようという欲望から起こる。いまあるものの理解には、何かであろうという欲望を理解。私は何か-醜い、貪欲、妬みぶかい-ほかの何か、反対物を望む。葛藤の原因。対立、矛盾した欲望から私達は成り立っている。

葛藤を見る、過程に気づいていることは解放。摩擦、選択なしに気づいているなら、いまあるものから自己投影の理想の中に逃げる欲望、すべての理想は自家製、虚構、非実在-すべてに気づいているなら、その気づきそのものが心の平静をもたらす。あなたはいまあるものと進み、理解する可能性。

葛藤は対立物の間の単なる摩擦よりずっと意義深い。葛藤は行為を観念に近づけることを通して起こる。 私達は常に行為を信念、理想、観念に近づけようとしている。私はあるべき姿、観念を持っていて、その理想にしたがって生きようとする・・観念と行為に橋を架けようとする意図があるとき葛藤が起こる。

観念と行為に橋を架けることができるか。行為は実在・現実。 行為なしに生きることができない。なぜ私は行為を観念に従わせようとしなければならないのか。 観念は行為よりもっと実在か、多くの実質を持っているか。 より真実か。にもかかわらず、私達自身を見守るなら、すべての行為は観念に基いている。私たちは最初に観念を持ち、行為がある。自発的、自由な行為が、取り巻く観念なしにある。』


人生、死、安全、関係、社会問題の理解には、静かな、偏っていない、自由で、静かで、問題が自身をあらわに、明らかにするままにする心が不可欠、葛藤があるとき、静かな心は不可能・・なようです。

私たちは、あるべき、すべき―子育て・教育によって、親・指導者・社会によって、自由で静かな心が、観念・信念・努力・理想に向かい、自己閉鎖・孤立・葛藤に縛られるようになる。

いまの社会は、そのような過程から長い歴史によってつくられてしまったようです。ですから、私たち自身の心の動き・働きを、教育・指導者・社会から自由になって、事実・過程を理解することなしには、私たちは、社会は変わってゆくことができないように思われます。