「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[3] 1949年10月16日】  M1257  2022/2/28

『 Q: 数年前のあなたの教えは理解でき、奮起させるものでした。あなたはそのとき熱心に進化、道、弟子であること、そして大師について話しました。今はまったく異なります。私はすっかり当惑しています。私はそのときあなたを直ちに信じました。そしていまあなたを信じたいのです。私は混乱しています。どちらが真実ですか-あなたがあの時言ったことと、いま言っていることと

A: このことは真剣な熟慮を本当に必要とします。そしてこの種のものにうんざりしている方々が辛抱強く聞いてくれることを望みます。

まず最初に、それは信じるという問題ではありません。私が言うことを信じる必要はありません-とんでもないです。あなたが私の言うことを信じるなら、そのときそれはあなたの悲惨です、私のではなく。そのときあなたは私をもうひとつの権威として使用し、したがって避難所、安心感を得るでしょう。しかし私が言っていることは単に、自己認識なしには、あなた自身を知ることなしには、生のどんな理解もあり得ないということにすぎません。それは信じることを必要としません。それはあなたの側での注意深さを必要とします-私が言うことを信じるのではなく。それゆえ、この点について非常に明確でありましょう。なぜなら、私はそう思うのですが、信じることは真実を理解することに対する妨害であるからです-それは無神論者にならなければならないということではありません。それは別の形の信念です。しかし信じることの、なぜ信じるかの全体の過程を理解することは知恵の始まりです。

私たちは何かにしがみつきたいので、安全を望むので、信じます。私たちは私たち自身の中で非常に不確かなので、非常に不満なので、非常に内的に貧しいので、豊かなものにしがみつきたいのです。世俗的な人が財産に執着するように、いわゆる信者は信仰に執着します-両者の間に大きな差はありません。両者とも安全を望みます。両者とも安心感を望みます。両者とも確しかさを望みます。そしてこれらの信仰は自己投影されたものであり、それゆえ実在に通じません。

さて、質問者は何故私が変わったかを知ろうと望んでいます。ある時期、何年か前、私は大師、弟子であること、進歩、霊的な成長、あらゆるその種のことを話しました。そして今私は話しません。なぜ どこで変化が生じたか、何がそれを生み出したか-それが質問の基礎でないでしょうか。そしてどちらを信じたらいいか知りたいのです。私が以前に言ったそれらのものごとか、私がいま言っていることか。

以前に言われたことは信仰を必要とします。何といっても、大師たちについての信仰を要します。その信仰を合理化することができますが、なおそれは信仰です。そしてそのような信仰を持つことは非常に都合がいいのです。特に大師がはるか遠くのどこかにいるときに-なぜならその時あなたはその考えをもてあそぶことができるからです。しかし、あなたがあなたと身体的に直接関係しているグル、教師を持っているなら、そのとき、それはずっと困難ではないでしょうか-なぜなら彼はあなたを批評するでしょう。あなたを見守るでしょう。あなたに説教をするでしょう-それはずっと苦痛です。ところが、インドに、ヒマラヤに、あるいは私たちの日常生活のすべてから遠く離れたどこかの山に大師を持つことは、非常に都合がよく、非常に励みになります。そしてこのような事は信仰を要します。それは自己投影された観念です。そしてそれはあなたに安心感を与えます。なぜならその時あなたは行為を延期できるからです。そのとき「さて、私は来世において彼のようになろう。貪欲から自由であるには長い時間がかかるだろう」と言うことができます-そしてそれをあなたは進化と称するのです。確かに、貪欲は延期されるべきことではありません。今貪欲から自由であるか、決してそうでないのかどちらかです。ある日貪欲から自由になるだろうと言うことは、貪欲の継続です。そして、誰かがあなたの世話をしており、あなたの背を叩いており、あなたを激励しており、あなたに特別な関心を示しており、一方、あなたは彼にしたがって、彼によって敷かれた理想にしたがって、あなた自身を鍛練するという考え-このすべては明らかに自己を得意がらせます。もちろんそれはあなたを激励します。あなたを鼓舞します。誰かがあなたに関心を抱いていると思うこと、あなたは何ものかであるため、あなたの前途に永遠を持っていると思うこと、道は時間をかけて、ゆっくり行くものであると思うこと、そしてある日到達するだろうと思うことは。

あらゆるそのような思考と信仰は非常に励みになり、奮起させます。それが励まされることを望む人々のために数多の会が作られる理由です。そのような過程は、私にとっては、搾取の道です-なぜならあなたは大師によって、あるいは大師の代表によって搾取されたいからです。そしてあなたはあなたの欲望と満足にしたがって代表を選びます。あなたが満足させられているとき、それは非常に奮起させるのです-少なくとも、あなたはそれを奮起させると言います。それは実際には別の形の興奮です。

さて、あなたがそのすべてを、何の基盤もまったくなしに、虚偽のものとして見るとき、あなた自身についてのあなた自身の理解を除いて、何も真理にあなたを導くことができないということ、あなた自身を除いてどんな大師もあなたに光を与えることはできないということを見るとき-そのときそれはそんなに奮起させることではありません。そんなに励ますことではありません。何故なら自分自身を知ることは注意深さ、油断のなさ、絶え間ない警戒を必要とするからです。そして自分が醜いということを知ることはむしろ退屈な、うんざりする、憂鬱なことです。しかしあなたの中に永遠の、すぐれた何かがあると告げられること-それをあなたは好みます。そこであなたは大師に従います。それに付随する錯覚のすべてを受け入れます。そのときそれはあなたに満足を与えます。そしてそれが、結局、私たちの大抵が求めていることです-真実ではなく、虚偽のものを理解することではなく、満足すること。そして、物理的世界の中で確実・安全を求めるように、あなたはそれを心理的・精神的世界に持ち越します。しかし心理的な世界に安全はありません。安全を追求するなら、そのとき錯覚があります。というのは、あなたが見出すのは、大きな不確実の中でだけだからです。

さて、そのすべてを見るとき、明らかにあなたはそれらのものをあなたから片付けます。もはやそれらをもてあそびません。そして私がいま言うことはコインの反対側ではありません-それはそれらのものごととは何の関係もありません、それらは虚偽なのです。自分自身を理解することが知恵の始まりです。虚偽であるものが見えるとき、あなたは既に真実であるものが見え始めているのです。明らかに弟子の身分の霊的な階位、階層制的な達成の段階を伴なう自己拡大のこの全構造は、まったく虚偽なのです。なぜなら、真実であるものは区別を持たないからです。しかし私達は区別を好みます。排除を好み、社会的に称号で呼ばれることを好みます。そして同じ俗物根性をもうひとつの世界に運び込みます。しかしこの全過程が、自己拡大であること、『私』や『私のもの』を重大にすること、私自身に名声を与えることとして見えるとき、そのとき、確かに、それは消え去ります。それと格闘する必要はありません。それは有毒な何かを見るようなものです。それは魅力を持ちません。それはもはや真実ではありません。したがって、あなたはもはやその考え方に属しません。

このすべては人は独りで立たなければならないという事を意味していますね。しかし私たちの大抵は独りであることを恐れます-孤立の意味ではなくて、何かをそうであるままに見る、虚偽を虚偽として、真実を真実として見るという意味においての独り。誰もが虚偽であるものを真実として見ているとき、虚偽を虚偽として見ることは確かな選択のない気づきを要します。そして私たちの大抵は独りで、静かで、自己投影した錯覚のすべてがないのを恐れるので、心によって作られた物事にしがみつくのです。あなた自身を理解することなしには、何をしようが、どんな理論、どんな大師を考えだそうが、どんな鍛練に従おうが-それは幸福につながりません。あなたはあなた自身を欺くかもしれません。「あなたの言うことと私の信じることは同じだ。それらはコインの両面だ」と言うことによってあなた自身を欺くかもしれません。あなたはあなたの好むことを言うかもしれません。しかしそれは単なる自己欺瞞にすぎません。しかし、自己のこの問題全体を調べること、そのやり方、その欺瞞と錯覚、その慰安のすべてを見ること-自分自身をそのように完全に知ることが心の静けさをもたらします。それは他人があなたに与えることはできません。そのとき、その静けさのなかに、永遠であるものがあり得るのです。』(K)


私の学習経過:

『 Q: 数年前のあなたの教えは理解でき、奮起させるものでした。私は混乱しています。どちらが真実ですか-あなたがあの時言ったことと、いま言っていることと。

A: 私が言うことを信じる必要はない。信じるなら悲惨。権威、安心感。自身を知ることなしには、生のどんな理解もあり得ない。信じる必要なく、注意意深さ必要。信じることは真実を理解する妨害。

私たちは何かにしがみつき、安全を望むので、信じる。私たち自身の中で非常に不確か、不満、内的に貧しいので、豊かなものにしがみつきたい。世俗的な人が財産に執着、信者は信仰に執着-安心感・確かさを望む。信仰は自己投影され、実在に通じない。

あらゆる思考と信仰は励みになり、奮起・励まされることを望む人々のために数多の会が作られる理由。搾取の道。

自分自身を知ることは注意深さ、油断のなさ、絶え間ない警戒を必要とする。心理的な世界に安全はない。自分自身を理解することが知恵の始まり。虚偽であるものが見えるとき、既に真実であるものが見え始めている。

すべては人は独りで立たなければならない事を意味。あなた自身を理解することなしに、何をし、どんな理論、大師、鍛練に従おうが-幸福につながらない。他人があなたに与えることはできない。その静けさのなかに、永遠であるものがあり得る。』(K)


「安全を望むので、信じる」・・が、信じる・・とは、過去であり、固定を意味し、現在・事実ではない。
それは・・不安からの逃避であって、理解から逃げることを意味する。