「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1253 2020/12/3

『 Q: あなたが話すことが非常にたぐいまれで、時折のわずかな人のためであるなら、あなたが私たちに話すことの目的は何なのでしょう。あなたは本当に私たち、大衆、を助けることができるのでしょうか。

A: 私は私の話すことの目的は非常に明確であると思います-少なくとも、私には。第一に私はあなたを搾取するために話していません。私はそれから刺激を得ているのではありませんし、私が話さないとしても当惑もしません。そういうことではありません。私は単純な理由から話します。なぜなら私は、あなたと私が私たちの問題を理解するのを、お互いに助けることができると思うからです-そして私が何やかやを達成した、より優れた人であると思うからではありません。私たちが持つ無数の問題をじっくり話し合うことによって-関係の問題、というのはほかの問題はないからですが-私たちはそれらを理解することができるからです。私たちはそれらを静かに、どんな偏りもなく、じっくり話し合うことができます。あるいは偏っており、先入観があるなら、その偏りと先入観に気づくことができます。

結局、私たちは私たち、あなたと私の間に関係を確立しようとしているのです。私があなたを利用していたり、あなたが私を利用しているなら、私たちは関係を持っていません。そのときあなたは私を搾取し、私はあなたを搾取します。しかし私たち一人一人が問題、それは自分自身ですが、を理解しようとしているなら、そのとき私たちは正しい関係を確立するでしょう。そのとき、たぶん、討論するとき-知的にでなく、言葉の上でなく-私たちは私達自身を探査できます。私たち自身をそうであるままに見ることができます。なぜなら、結局、関係はその中に私が私自身をそうであるままに見る鏡です-つまり、私が私自身を見たいなら。しかし、私たちの大部分はいまあるものを見ることを好まないので、私たちは関係を道化芝居にするのです。関係はそのとき逃避になります。

あなたが私を通して、あるいは私があなたを通して逃避することを望まないなら、そのとき様々な問題を一緒に理解することの中で、私たちが一人にせよ多数にせよ、そうであるままに私たち自身を見ることができます。私には大衆というようなものはありません。大衆はあなたと私です。私たちは人々をドイツ人とか、ロシヤ人、イギリス人、インド人と呼ぶ時、彼らを理解していると思います。そうするのは怠惰な心です。「おお、あなたはインド人です」、とか、「あなたはイギリス人です」と言うのは怠けている心です。なぜなら、誰かを名前で呼び、それで「私は彼を理解した」と思うのはとても容易ではないでしょうか? しかし私があなたを名前で呼ばないなら、私はあなたをもっとよく親密に見なければなりません。私はあなたの個人的な思考の運動を研究するためにあなたの顔を見なければなりません。個人としてのあなたに気づいていなければなりません。しかし私があなたを集団として処理するなら、そのとき私は非常に容易にあなたを爆撃し、滅ぼすことができます。

そこで、他人を助けるためには、私はその他人を見なければなりません。これやあれである、これやあれの国籍に属しているとしてではなく、彼をそうであるままに見ること。私が私自身の狭量な国家主義に、私自身の団体、信念、ばかげた迷信、私自身のナンセンスに、私自身捕らえられているなら、私は彼をあるがままに見ることができません。それゆえ、お互いを理解するためには、私たちはお互いを非常に明確に見なければなりません-すなわち、あなたを理解するためには、私は私自身を知らなければなりません。私は私のあなたとの関係の中で、非常に明確に私自身を見なければなりません。そしてそのときのみ、お互いに助けることの可能性があるのです。』(K)


私の学習経過:

『 Q: あなたが私たちに話すことの目的は何なのか。本当に私たち大衆を助けることができるのか。

A: 私の話す目的は明確-搾取、刺激ではなく・・私たちの問題の理解。お互い助けることができる-何かを達成、優れた人と思うからではない。偏りと先入観に気づくことができる。

私たちが問題-自分自身を理解するなら、正しい関係を確立。私達自身を探査-そうであるままに見る。関係は
私自身をそうであるままに見る鏡。私たちの大部分は、いまあるものを見ることを好まないので、関係は逃避になる。

逃避することを望まないなら、様々な問題を一緒に理解する中で、そうであるままに私たち自身を見ることができる。

誰かを名前で呼び、「彼を理解した」と思うのはとても容易。名前で呼ばないなら、もっとよく親密に見なければならない。

他人を助けるには、他人を見なければならない・・そうであるままに。私が、私自身捕らえられているなら、彼をあるがままに見ることができない。

あなたを理解するには、私自身を知らなければならない。あなたとの関係の中で、明確に私自身を見なければならない。そのときのみ、お互いに助けることの可能性がある。』


「私自身をあるままに見る・・自分を知る」ということは、そんなに簡単なことではないようです。生まれたときから、何か・・目的、達成・成功するように育てられ教育されて、社会は・・勝利・地位・財産を求める「他者との競争」で成り立っている・・それが人類の・・争い・闘い・地位・権力・破壊・悲惨の「歴史」なのかもしれない。