「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1241 2019/11/10 

 『 これは一続きの最初の講話です。大部分の人は、すべての講話に来ることは出来ないでしょうから、出来れば、各々の講話をそれ自体で完結するようにしようと思います。

問題を持っている私たちの大部分にとって、私たちがそれぞれの問題をそれ自体の平面上で解決しようとすることの中に難しさが横たわっています。私たちは問題を統合的に、全体として解決しようとはしないで、それを特定の観点から解決しようとします。あるいは問題を、生であるところの全体の過程から区別しよう、切り離そうとします。経済的な問題を持っているなら、生の全体の過程を無視して、その平面上で単独で解決しようとします。そしてそのように取り組むとき、どの問題も明らかに解決に失敗するに違いありません。なぜなら私たちの生は水も漏らさない仕切りの中にあるのではないからです。私たちの生は、生理的のみならず心理的にも全体的な過程であり、そして心理的な問題を、生理的な問題の理解なしに解決しようとするとき、間違った強調をし、したがって問題を一層複雑にします。私たちがしなければならないことは、私にはそう思えるのですが、それぞれの問題を別個の争点として取り扱うのではなく、全体の一部として取り上げることです。

そこで、生における私たちの問題は何でしょうか? なぜなら、それぞれの問題にどうやって正しく接近するか理解できるなら、その問題だけでなく、生存の意義全体を理解できるだろうと私には思われるからです。そしてそれが私たちの難しさなのではないでしょうか? どんなふうに問題に統合的に、全体として接近するか、それを別個のレベルに保つのではなく、一つの特定の観点から見ようとするのではなく、どんなふうにそれを全体の一部と見做すか。

どうやって問題に統合的に接近することが出来るでしょうか? 私たちが問題と言っているのは何なのでしょうか? なぜなら、私たちは皆さまざまな問題を、重大なものや取るに足りないもの、即時のものや延期できるものを持っているからです。私たちは無数の問題、微妙なものや明白なものによって駆り立てられています。そしてどうやって私たちはそれらに正しく実際に接近できるでしょうか、また問題によって私たちは何を意味しているのでしょうか? そして問題を持っていることに私たちは気づいているでしょうか、そしてどうやってそれらに接近しますか? 問題に対する私たちの態度はどんなですか?

問題によって私たちは何を意味しているでしょうか? 確かに、その中に葛藤のある状態を意味しています。私たちの中に葛藤がある限り、私たちはその葛藤を問題として、解消すべき、理解すべき、解決すべき何かと見做します。あるいはそれから逃げたいと思います。それゆえ、私たちは問題、葛藤に、それから逃げようとか、それへの答えを見出そう、それへの解答を見出そうとかの欲求を持って接近するのではないでしょうか?

さて、解答は問題と違っているのでしょうか、それとも解答は、問題それ自体の理解の中に横たわっていて、それから離れていないのでしょうか? 明らかに、私たちの中の、問題から逃避したいと思っている者は無数のやり方を持っています-飲酒、娯楽、宗教的あるいは心理的幻想、などなど。問題からの逃避を見出し、それらに目を閉じることは比較的容易です。それを私たちの大抵がしています。なぜなら、どうやってそれらに取り組むか、私たちは知らないからです。私たちは常に信念や先入観にしたがって、出来合いの答えを持っています。教師や、心理学者や、他の誰かが私たちに話したことにしたがって。そしてその出来合いの答えで、私たちは問題を解決しよう、接近しようとします。確かにそれは問題を解決しません。それは別の形の逃避です。

それゆえ、私には、問題を理解することは、出来合いの答えではなく、問題の解決を捜そうとすることではなく、問題それ自体の直接の考慮を必要とするように思われます。そのことは、そう言ってよければ、答えを見出そうという欲望なしに問題に接近することです。そのとき、あなたは問題に直接に関係していいるのであり、そのときあなたは問題であり、もはやあなた自身から別個ではありません。そしてあらゆる複雑さを伴う生存の問題が私たち自身と違ってはいないということが、理解しなければならない最初のことであると私は思います。私たちが問題なのです。そして問題を私たちから離れた、あるいは別の何かとして見做す限り、私たちの接近は不可避的に失敗に終わるに違いありません。他方、問題を私たちから切り離すのでなく、私達自身として、私たちの一部として見做すことができるなら、そのとき、たぶん、それをはっきり理解することが出来るでしょう-それは、本質的に、自己認識がないので問題が存在するということではないでしょうか? 私が私自身を、私自身の複雑さ全体を理解していないなら、私は考えるための基盤を持っていません。『私自身』は確かにどの一つの特定のレベルにあるのでもありません。『私自身』は、私がどのレベルにそれを位置づけようとも、すべてのレベルにあるのです。それゆえ、私が私自身を把握していない限り、私が私自身を十分に、はっきりと理解していない限り-無意識も意識も、隠れたものも表面のものも-明らかに私は問題に、それが経済的、社会的、心理的、あるいはどんな他の問題であるにせよ、接近する手段を持っていません。』(K)


私の学習経過:

『問題を持っている私たちは・・生の全体の過程を無視し、特定の観点から単独で解決しようとする。

問題にどうやって正しく接近するか理解できるなら、問題だけでなく、″生存の意義全体を理解″できる。
私たちの難しさ・・問題に統合的、全体として接近するか、全体の一部と見做すか。000

私たちが問題と言っているのは何なのか。問題を持っていることに私たちは気づいているか。私たちの中に葛藤がある限り、葛藤を問題として理解、解決・・逃げたいと接近する。

私たちは常に信念や先入観・教師、心理学者、誰かの話にしたがい・・出来合いの答えで、問題を解決しようとする・・問題を解決しない、別の形の逃避。00000

問題を理解することは、答えを見出そうという欲望なしに問題に接近・・問題に直接に関係、あなたは問題であり、自身から別個ではない・・理解しなければならない最初のこと。

私たちが問題なのです。問題を私たちから離れた、別の何かと見做す限り、私たちの接近は不可避的に失敗に終わる。問題を私たちから切り離すのでなく、私達自身、私たちの一部として見做すことができるなら、はっきり理解出来る-本質的に、自己認識がないので問題が存在。

私が私自身を、私自身の複雑さ全体を理解していないなら、私は考えるための基盤を持っていない。無意識も意識も、隠れたものも表面のものも-明らかに私は問題に、経済的、社会的、心理的、どんな他の問題にせよ、接近する手段を持っていない。』

クリシュナムルティ(K)のことばから学ぶことを、要点としてまとめてみた。

私たちは、そしてこの社会や教育では、親や指導者や専門家の言葉に従い、それを「学習」とか「教育」と言って、いまの「夢・目的・成功・地位」による「競争社会」「格差社会」をつくってしまったが、真に「生きること・学ぶこと」は・・これから学習するだろう「自己認識」による「現在を見て、理解して学び、そして生きること」
であると思う。