「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1242 2019/12/15

 『 自己認識は問題を理解することの始めです。信念、観念、知識は、自己認識なしには、まったく本当に何の意味も持っていません。自己認識なしには、それらは錯覚に、あらゆる種類の複雑さと愚かさにつながります。その中に私たちは非常に微妙に逃避できるのです-そして私たちの大部分はそうします。それが私たちがそんなに多くの協会、そんなに多くの団体、そんなに多くの排他的な組織や秘密団体に参加する理由です。排他的であることは愚かさの性質ではないですか? 愚かであればあるほど、人は宗教的、社会的にますます排他的になります。そしてそれぞれの排他性がそれ自体の問題を作り出します。

それゆえ、私たちに立ちはだかる多くの問題を理解することの中の難しさは、微妙なものも明らかなものも、私達自身を知らないことによって生じます。問題を作り出す者は私たちです。環境の一部である私たち-より以上のものと同等としての。それを私たちは、私達自身を理解できるなら、発見するでしょう。私たちがより以上のもの、神聖な、精神的なものである、私達のなかに永遠のもの、ある精神的な本質があると単に言い張ること-そういったことは明らかに錯覚であると私には思われます。なぜなら、それは知らないものの単なる言語化にすぎないからです。あなたは感じ、気持ちを持つかもしれません。しかしそれは事実に基づくものではありません。事実であるものは発見されなければなりません。経験されなければなりません。しかし、何かを深く根本的に経験するためには、信念があってはなりません。なぜなら、あなたが経験するものはそのとき、あなたの信念によって単に条件付けられているに過ぎないからです。信念はそれ自体の経験をつくり出します。したがって、そのような経験は真実ではありません。それは単に挑戦に対する条件づけられた反応に過ぎません。

それゆえ、私達の一人一人が持っている無数の問題を理解するためには、自己認識があることが不可欠ではないでしょうか? そしてそれはもっとも難しいことの一つです。自己への気づき-それは孤立、隠遁を意味しません。明らかに自己を知ることは不可欠です。しかし自己を知ることは関係からの隠遁を意味しません。そして自己を、孤立を通して、排除を通して、あるいは誰か心理学者の所に、あるいは牧師の所に行くことによってはっきり、完全に、十分に知ることができると思うのは、確かに誤りでしょう。あるいは本を通じて自己認識を学ぶことができると思うのも。自己認識は明らかに過程であり、それ自体目的ではありません。そして自己を知るためには、行為の中で、それは関係ですが、自分自身に気づいていなければなりません。あなたはあなた自身を、孤立の中ではなく、隠遁の中ではなく、関係の中に発見します-社会との、妻、夫、兄弟との、人間との関係の中に。しかしあなたがどう反応するか、あなたの応答がどんなであるか発見するためには、心の並外れた油断のなさ、知覚の鋭さを要します。』(K)


私の学習経過:

『 自己認識は問題を理解する始め。信念、観念、知識は、自己認識なしには、何の意味も持たない。錯覚、愚かさにつながる。逃避できる-私たちが多くの協会、団体、排他的な組織や秘密団体に参加する理由。排他的・愚かであるほど、宗教的、社会的な排他性が問題を作り出す。

私たち多くの問題を理解する難しさは、自身を知らないことによって生じ・・問題を作り出す者は私たち。私たちの、神聖な、精神的な、永遠の、精神的な本質があると言い張る-明らかに錯覚。知らないものの単なる言語化にすぎない。事実に基づくものではない。事実は発見・経験されなければならない。
深く根本的に経験するには、信念があってはならない。経験は、信念によって条件付けられている。信念は自体の経験をつくり出し、経験は真実ではない。単に挑戦に条件づけられた反応。

私達の無数の問題の理解には、自己認識が不可欠・・もっとも難しいことの一つ。自己への気づきは孤立、隠遁を意味しない。誰か心理学者、牧師に行って、完全、十分に知ると思うのは誤り・・本を通じても。自己認識は過程で、目的ではない。
自己を知るには、行為・関係の中で、自分自身に気づいて・・自身を、孤立・隠遁の中でなく、関係の中に発見する。』

私たちは、子育てや教育・社会によって、「過去」にとらわれた指導者に従い、「自分の目で見る」ことから離され、「事実・現在を自分の目で見る」ことから目をそらされて・・自己認識を失っていく過程にあるのではないか・・・。