「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1252  2020/10/25

『Q: 私は神を信じることができないことを見出します。私は科学者ですが、だが私の科学は私に満足を与えてくれません。私は何事も信じる気になれません。これは単に条件付けの問題に過ぎないのでしょうか。もしそうなら、神の信仰はもっと実在のものなのでしょうか。どんなふうに私はその信仰にいたることが出来るでしょうか。

A: なぜ私たちは信じるのでしょうか。信じることの必要性は何でしょうか。それはあなたが信じてはならないということではありません-それは問題ではありません。なぜ私たちは信じるのでしょうか。そして信じることはただ経験を条件付けることができるだけです。確かに、私が信じるもの、それを私は経験します。私が神を信じるなら、それを私は経験するでしょう。しかしそのような経験は実在ではありません。それは自己投影された経験にすぎません。

それゆえ、なぜ私たちが信じるか見出すことが重要ではないでしょうか。そして信仰を通じて、何か見出すことができるでしょうか。何かを発見できるでしょうか。それとも、心はそれが信念に、結論に掴まえられていない、繋がれていないときのみ発見することができるのでしょうか。しかしなぜ私たちは神を信じるのでしょうか。明らかに、私たちのまわりのあらゆるものが束の間のものであり、私たちのまわりのあらゆるものが変化し、破壊され、終っていくのを見るからです-私たちの思考、私たちの感情、私たちの生活。そして私達は永続する、持続する、永久的なものを望むのです。私たちはその永久的なものを私達自身の中に、それを魂、アートマン、あるいはあなたの好むもの、と称してつくり出すか、あるいは永久的なものを求めるその要求を、私たちが神と称する観念の中に投影します。

観念は決して永久的ではあり得ません。私は観念が永久的であるのを好むかもしれませんが、本来それは永久的ではありません。私は永久的なものを望むかもしれません。しかし私がそれを望んでいる限り、私は非存在である永久的なものをつくり出しているのです。そして信念、神の信仰、は単に、永久的なものを求めている人の反応、応答にすぎません。したがって、彼の信仰は彼の経験を条件付けます。彼は「私は神が在ることを知っている。私はその途方もない感覚を経験した。」と言います。しかし確かに、永久的なものを求める欲求に基くそのような経験は、自己投影の経験であり、したがって実在の経験ではありません。そして、実在であるものは、もはや安全、永久的なものを求めるという問題が何もないとき、すなわち、心がまったく静かであり、あらゆる欲望から自由であるときのみ見出され得るのです。

それゆえ、信じる限り、私たちは決して見出せません。したがって、実在であるもの、神であるものを見出すためには-あなたがそれをどんな名前で呼ぶのを好むにせよ-自由がなければなりません。恐怖からの自由、内的に安全でありたいという欲求からの自由、未知のもののあの恐怖からの自由。そしてそのときのみ、確かに、そのものが何であっても経験することが、神というようなものがあるかどうかを知ることができるのです。しかし神を信じる人間、あるいは神を信じない人間は、その結論にしがみつくなら、明らかに錯覚に捕らわれます。私がそのものを知ることが、理解することが、それを直接に経験することができるのは、私が自己閉鎖していないとき、信仰によって、恐怖によって、貪欲によって、嫉妬などなどによって条件づけられていないときのみなのです。

信仰は、そのとき、明らかに実在を経験することを破壊します。そしてそのように考えることは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は非常に信仰に条件づけられているからです-あなたや私と同様に科学者も。なぜなら私達は皆信仰に満足を見出すからです。そして私が物事の中に、人々の中に、観念の中に満足を見出さないなら、そのとき私は最高級の観念をつくり出します。それは神です。そしてそれに私は執着します。なぜならそれはずっと満足がいき、より心地よいからです。それゆえ満足の追求は不可避的に障壁をつくり出し、これらの障壁に私たちは執着します。あなたは信じる者か信じない者ですが、あなたと私が、実在があるかどうか、神があるかどうか、心によって製造されたのでない、興奮や興奮を求める探求の結果でない何かがあるかどうか、理解することを本当に望むなら-そのようなものを見出すことを望むなら、そのとき私たちは興奮の過程を理解しなければなりません。なぜなら、信仰は、飲酒がするように、私たちに興奮を与え、そしてこれらの興奮に私たちは執着するからです。そしてこれらの興奮は自己投影されているのです。私たちは私たちの心から神のイメージをつくり、そしてそれに執着するのです。

しかし、もしもあなたと私が、名付け得ない、時間のものでない、あのものを本当に経験したいなら、私たちは信仰にしがみつくことはできません。それは自己投影されたイメージです。なぜなら名付けられた何も実在のものではありません。それは記憶の、私たちの条件付けの結果です。そしてそれが時間に属するものであるなら、そのとき、それはなお心の一部です。というのは心は過去のものの結果、社会的、環境的、教育的などなどの様々な影響の結果であるからです。それゆえ、私たちが時間の、命名の過程を理解するなら、私たちの中に存在する条件付けを、私たちが捕えられている影響を理解するなら、その理解が心の静かさをもたらします。私が言ったように、心は静かにされることはありません。心を静かにするとき、そのときそれは死んだ心です。心を静かであるように訓練するとき、それは表面的に静かであるかもしれませんが、それはなお、隅におかれている子供のように、動揺の状態の中にあります。しかし信仰、刺激物、安全であろうという欲求、永続するものの探索の過程全体を理解するとき、これらのものごとすべての真実を、十分に、ただ表面的あるいは言葉の上だけでなく、実際にそれを経験して理解するとき-そのとき心は静かです。あなたは心を静かにさせる必要はありません。心を静かにさせることは役に立ちません。あなたが心です。あなたは思考であると同様に思考者です。しかし思考者が彼自身を分離して、彼の思考を制御しようとするなら、それは錯覚に通じます。

それゆえ、そのとき、あなたはこのすべてを見、それを理解し、それを直接に経験します-そのとき心は静かです。そしてその静かさの中で、あなたは神、実在があるかどうか、あるいはないかどうかを知るでしょう。その静かさの中で、その静寂の中で、あなたは知るでしょう。その前に、神や神のないことについて、あなたが正しい大師に随っているのかいないのかについて思索すること-そのすべては私には非常に子供じみていて未熟に思われます。しかし実在を経験することは想像し得る、思索し得ることではありません。あなたが実在のものを見出すのは経験している状態の中でだけです。しかし刺激の手段として、私たちの関係の日常生活からの逃避として信仰を求める事は不可避的に錯覚に通じるに違いありません。どんなレベルにその錯覚を置くことをあなたが好むとしても。

それゆえ、明らかに、発見するためには、自由が、貪欲からの自由がなければなりません。そしてあなたが科学者で私が素人であろうが、あるいは私が無知であなたが知識に満ちていようが、私たちが私達自身を理解するときのみ、あの実在を見出すことができます。そして私達自身の理解の中に静けさが生じます。というのは自己認識は知恵をもたらすからです。そして静けさがあるのは知恵の中でだけなのです-知識の中ではなく、知的な楽しみと観念形成の楽しみの中ではなく。観念の中には静けさはありません。そしてその静けさは、心がもはやそれ自身の投影を追跡していないときのみ生じます。実在を経験することは人に手渡せるものではありません。どんな大師、どんな救世主もそれをあなたに授けることはできません。それは私達自身を私達自身が理解する深みでのみ生じます。』(K)


私の学習経過:

『 なぜ私たちが信じるか見出すことが重要。信仰を通じて、何か見出し、発見できるか。

あらゆるものが束の間の、変化し、破壊され、終っていくのを見る-私たちの思考、感情、生活。
私達は永続、持続、永久的を望む。

永久を好み、望んでいる限り、非存在の永久的なものをつくり出している。信念、神の信仰は、単に永久を求める反応、応答にすぎない。実在であるものは、安全、永久を求める問題が何もない・・心がまったく静かで、あらゆる欲望から自由であるときのみ見出され得る。

信じる限り、決して見出せない。理解、経験できるのは、自己閉鎖していない、信仰、恐怖、貪欲、嫉妬によって条件づけられないときのみ。

満足の追求は不可避的に障壁をつくり出し、執着する。興奮の過程を理解しなければならない。信仰は、飲酒のように、私たちに興奮を与え、執着する。興奮は自己投影され、神のイメージをつくり、執着する。

心は過去の、社会的、環境的、教育的な影響の結果。時間の、命名の過程を、条件付けを、私たちが捕えられている影響を理解するなら、その理解が心の静かさをもたらす。心を静かにするとき、それは死んだ心です。

信仰、刺激物、安全の欲求、永続するものの探索の過程全体を理解するとき、すべての真実を、十分に、表面的、言葉の上だけでなく、実際に経験して理解するとき-心は静かです。心を静かにさせる必要はない、役に立たない。あなたが心です。あなたは思考であると同様に思考者です。

そのとき、あなたはすべてを見、理解し、直接に経験する-心は静かさの中で、神、実在があるかどうかを知る。想像、思索し得ることではない。経験している状態の中でだけ。

私達自身を理解するときのみ、実在を見出す、静けさが生じ、知恵をもたらす。観念の中には静けさはない。静けさは、心がもはや自身の投影を追跡していないときのみ生じる。実在を経験することは人に手渡せるものではない。どんな大師、救世主もあなたに授けることはできない。私達自身を私達自身が理解する深みでのみ生じる。』(K)


人類の歴史は、戦いであり、戦争であり、それはいまも続いている。戦いの背景に宗教の争い・戦いが見えてきます。

何故信じるのか・・・。人類の永遠のテーマです。「信じる」中に「信じられない」が含まれているのが見えていないのか・・信じるのは信じられないのと一緒です。

私たちの心にある不安や欲望が・・何か頼るもの、何かの欲望・・目的・努力・依存をもたらし、絶対的な「神」をつくりだしている。

それは事実から離れ、対立をつくりだし、文化・発展の錯覚につながり、人はいまの現実・・対立・争い・破壊・悲惨・戦争の歴史をつくりだしている。

『自分自身を理解する』ことこそが、いまの社会・世界を見ること、人間というもの、心というものの事実・真実を理解し、「どう生きるか」につながるのか・・・。