「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1243 2020/01/12

『 それで、どんな問題も全体の過程の結果であり、排除的な孤立した結果ではないので、それを理解するためには、私たちは私達自身の全体の過程を理解しなければなりません。そして私達自身を理解するためには-ただ表面的に、上層の心の一二の層の中だけではなくて、意識の全内容、私達の存在の全内容を通して-それを十分に、はっきりと理解するためには、関係の中で知覚し、経験しなければなりません。私達はその関係を排除的な、狭い、限定されたものにし、それによって私達の自己認識を妨げることもできます。あるいはそれを、その関係を、全体として、自己発見の手段として、見ること、気づいていることもできます。確かに、関係の中でのみ、私のあるがままの過程が展開するのではないでしょうか? 関係は、その中に私が私自身をそうであるままに見る鏡です。しかし私たちの大抵は私たちのあるがままを好まないので、関係の鏡の中に知覚するものを、肯定的あるいは否定的に訓練し始めるのです。すなわち、私は関係の中に、関係の行為の中に何かを発見し、そして私はそれを好みません。それゆえ、好まないもの、不快であると認めるものを修正し始めます。私はそれを変えたい-それは、私は、私がそうあるべきであるパターンを既に持っているということです。私がそうであるべきパターンがある瞬間、私のいまそうであるものの理解はありません。私のそうありたいもの、あるいはあるべきもの、そうであってはならないものの絵-それに従って私自身を変えたいと思う基準-を持つやいなや、そのとき、確かに、関係の瞬間における私のいまそうであるものの理解はありません。

これを理解することが本当に重要だと私は思います。というのは、これが私たちの大部分が迷う所だと私は思うからです。私達は関係の中の与えられた瞬間に、私たちが実際にそうであるものを知りたくないのです。私達が単に自己改善にかかわっているに過ぎないなら、私達自身の、いまあるものの理解はありません。あなたは単に結果を得ることにかかわっているに過ぎません。そして結果を得ることは、結局恐るべき穴です。なぜならそれはどこにも導かないからです。しかし、あるべき私でなく、そうである私を知ることは、すこぶる骨が折れます。なぜなら心は非常に微妙で、そこにあるどんなものも避けるのに非常に熱心であるからです。そこでそれは種々の基準、パターン、憶説を発達させました。それは今あるものを否定します。それゆえ、自己を、それは死んだものではなくて生きているものですが、理解するためには、あなたは活動的に新しく接近しなければならず、したがって、基準を肯定的や否定的に主張することはできません。

それゆえ、自己を理解するためには-それは関係の中でのみなされることができるのです。外部の関係ではありません-非難があってはなりません。私が何かを非難するなら、それを理解しません。あるいは何かを受容するなら、私はそれを理解しません。受容は単に問題との同一化に過ぎません。そして否定や非難は同一化のもうひとつの形です。しかし、私たちが問題を非難や同一化なしに見ることができるなら-すなわち、関係の中で、私自身の問題を私がそうである通りに見ることができるなら、それは行為ですが-、そのとき、いまあるものを理解する可能性が、したがって、いまあるものを開く可能性があります。』(K)

私の学習経過:

『 どんな問題も全体の過程の結果・・排除的な孤立した結果ではない。私達自身の全体の過程を理解するには-上層の心の中だけでなく、意識・存在の全内容をはっきり理解するには、関係の中で知覚、経験・・ 関係は私自身をあるままに見る鏡。

私たちはあるがままを好まないので、関係の鏡の中に知覚するものを、好まない不快なものを修正し始める。
私は変えたい-あるべきパターンを既に持っている・・関係の瞬間における私のいまそうであるものの理解はない。

私達は関係の中の与えられた瞬間に、実際にそうであるものを知りたくないのです。私達が自己改善にかかわっているに過ぎないなら、私達自身の、いまあるものの理解はない。結果を得ることにかかわっているに過ぎない。

あるべき私でなく、そうである私を知ることは、すこぶる骨が折れる・・心は非常に微妙で、どんなものも避けるのに非常に熱心・・種々の基準、パターン、憶説を発達させた。今あるものを否定し、自己―死んだものでなく生きている―を理解するには、活動的に新しく接近しなければならず、基準を肯定的や否定的に主張することはできない。

自己を理解するには-関係の中でのみなされる。非難があってはならない。非難するなら、理解しない。
私たちが問題を非難や同一化なしに見るなら-関係の中で、問題をそうである通りに見るなら、いまあるものを理解する可能性がある。』

日本でも、世界にも・・科学技術の発展は急速で、若い人たちははそれを追いかけているが、私たちの心はどうなってゆくのだろうか。歴史的にも現在も、人間の心は破壊に向かっているのではないのか・・・。
子育ても教育も、あるがままの姿・事実が見えないのか、見ようとしないのか、ひたすら過去のパターンに無理に従わせるように強制する。それは指導者を作り出して、社会の争いや暴力を生み出し、社会に世界にも対立と破壊が続いているのが見えてくる。