「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1244 2020/02/16

『 それゆえ、私達の問題は私達自身の全体の過程の結果であるので、それはもの、観念、人々のどれとであれ関係の中の行為なのですが、私達自身の理解がなければならないということが不可欠ではないでしょうか? 私自身を知ることなしには、私は考えるための実在の基盤を持ちません。私は考えることができます。少なくとも考えることが出来ると思います。私は意見を持つかもしれません。無数の信念を持つかもしれません。この協会、あの組織や教会に属するかもしれません。広大な知識を持つかもしれません。確かに、そういったものは正しい思考のための基盤ではありません。それは錯覚につながります。それは一層の葛藤、一層の混乱につながります。それゆえ、正しく考えるためには、自己認識があることが不可欠ではないでしょうか? それは、あなた自身をあなたがそうである通りに瞬時瞬時知ること、進行するあらゆること、外側のあらゆる挑戦に対する、あらゆる経験に対する内部の反応のすべてに気づいていることです。しかし、何かの形の信念、昨日の経験に対する何かの形の執着があるなら、あなた自身を十分に、完全に、深く、広く知ることはできません。何かを理解するためには、新鮮な心を必要とします-偏見を持った心ではなく、経験で動きが取れなくなった心ではなく。なぜならあなた自身を理解するためには、自己発見がなければならないからです。明らかに、発見は瞬時瞬時にのみあり得るのであり、したがって、連続性がなければなりません-高貴であろうが、ばかげていて愚かであろうが、単に特定の型に条件づけられた思考ではなく。

それゆえ、特定の経験、それは関係なのですが、その全体の意義に気づいていることはそんなに容易ではありません。それは並外れて油断のない、鋭い心を必要とします。しかし心は、昨日の経験にしがみつくことによって鈍くされています。心は信念によって鈍くされています。既に言ったように、信念に基づく経験は単に心を条件付けるに過ぎません。そしてそのような経験は、非常に申し分なく満足でも、関係の中の反応の気づきを通して生じる途方もない、幅広い自己認識を明らかに限定します。なぜなら、あなたが経験を持ち、その経験に、それは記憶なのですが、しがみつき、そしてその条件づけられた思考をもって、その記憶をもって新しい挑戦に接近するなら、明らかにその挑戦の理解はないからです。そして関係は、確かに挑戦ではないでしょうか? 関係は静的なものではありません。そして、その挑戦に適切に、十分に出会うことが出来ないために私達は問題を持ちます。私達は国家主義者、カソリックプロテスタント仏教徒、その他の何かわけの分からないものであるので、あるいはこの協会やあの団体に属するので、それらは皆限定するのですが、絶えず起こっている挑戦に出会うことが出来ないのです。というのは挑戦に出会うためには、完全な自己認識がなければならないからです。そして私達自身を発見する手段として、記憶に、過去の経験に頼ることは、明らかに私達の思考を、私達の知覚を限定します。なぜなら、結局、私達の大抵が求めているものは何でしょうか? 私たちは問題を持っているけれども、経済的に悩んでいるけれども、巨大な不安定、戦争、国家主義の生活妨害、無数の教団・宗教の排他主義、そして排他的であろうとする私達自身の欲求があるけれども-これらすべての愚かさにもかかわらず、私達が実際に求めているのは何でしょうか? それを知ることができるなら、多分私たちは理解することができるでしょう。なぜなら私達は私達の年齢にしたがって、私たちの人生の期間と環境にしたがって求めるからです。

この混乱のすべてを通じて、永久的なもの、永続的なもの、私たちが実在、神、真理、あなたの好む何か、と呼ぶものを私達は求めないでしょうか?-名前は問題ではありません。確かに、言葉はものではありません。それゆえ言葉に捉えられないようにしましょう。それは専門的な講演に任せましょう。確かに私たちの大部分に、永続的なものを求める追求があるのではないでしょうか?-私達がしがみつけるもの、私達に保証、希望、永続的な熱狂、永続的な確実性を与えてくれるもの。なぜなら私達自身の中で、私達はそんなにも不確かであるからです。私達は私達自身を知らないのです。私達はたくさんの事実、本が述べていることを知っています。しかし私達自身で知っていません。私たちは直接の経験を持っていません。』(K)


私の学習経過:

『 意見、信念・・組織、教会。広大な知識は、正しい思考の基盤ではない・・錯覚、葛藤、混乱につながる。

正しく考える自己認識が不可欠。ある通りに瞬時瞬時知る。新鮮な心が必要-偏見、経験で動きが取れない心でなく。

特定の経験、関係、全体の意義に気づき・・油断ない、鋭い心が。心は経験、信念に鈍くされ、自己認識を限定。

国家主義者、カソリックプロテスタント仏教徒、何か協会・団体に属し、限定、挑戦に出会うことない。

挑戦に出会うには、自己認識。自身を発見する手段として、記憶、過去、経験に頼ることは、思考、知覚を限定。

私達が求めるもの・・問題、経済、戦争、国家主義の生活妨害、無数の教団・宗教の排他主義、自身の欲求。

混乱のすべてを通じ、永久的、永続的、実在、神、真理、好む何かと呼ぶものを求めないか。

言葉はものでなく、捉えられない。永続を求める追求-しがみつける、保証、希望、永続的な熱狂、確実性。

私達は自身を知らない。たくさんの事実、本が述べることを知る・・自身で知らない。直接の経験ない。』

私たちは、親・指導者・組織から教えられた知識・経験・指示・命令に疑問を持ったことはないだろうか。家で、学校で、そして社会でも、大人から教えられ、注意され、怒られたりしたとき・・何故なのか、どうして叱られなければならないのか、そうしなければならないのか、・・・わからない、反感、怒り・・があったのを覚えているだろうか・・・。