「自我の終焉」の源流を尋ねて 1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日  M1245 2020/03/15

『 そして私たちが永続的と称するものは何でしょうか? 私たちに永続的なものを与えてくれる、あるいは与えてくれると私たちが思っている、私たちの求めているものは何でしょうか? 私たちは永続的な幸福、永続的な満足、永続的な確実性を求めていませんか? 私たちは私たちを満足させそうな、果てしなく持続するものを望みます。私達自身からすべての言葉と句を取り除き、実際にそれを見るなら、これが私たちの望んでいるものです。私たちは永続的な快楽、永続的な満足を望みます-それを私たちは真理、神、あなたの望む何か、と称するのです。

それゆえ、私達は快楽を望みます。多分それは非常に粗野に述べているかもしれませんが、それが現実に私達が望んでいるものです-私達に快楽を与える知識、私達に快楽を与える経験、明日までになくならない満足。そして私達は種々の満足を試しました。それらはすべて消えていきました。そして今私たちは永続する満足を実在の中に、神の中に見出そうと思います。確かに、それが私達が皆追求していることです-利口な人も愚かな人も、何かを目指して努力している理論家も実際的な人も。そして永久的な満足があるでしょうか? 持続する何かがあるでしょうか?

さて、あなたが永続的な満足を、それを神とか、真理とか、あなたの望む何かと呼んで求めるなら-名前は問題ではありません-確かにあなたは求めているものを理解しなければならないのではないでしょうか? 『私は永久的な幸福を求めている』とあなたが言うとき-神、あるいは真理、あるいはあなたの好む何か-、あなたはまた探求している当のもの、探求者、追求者を理解しなければならないのではないでしょうか? なぜなら、永続的な安全、永続的な幸福というようなものはないかも知れないからです。真理はまったく違ったものであるかもしれません。そしてそれはあなたが見、心に描き、公式化できるものとはまったく違うと私は思います。それゆえ、永続的な何かを追求する前に、追求者を理解することが明らかに必要ではないでしょうか? 追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 『私は幸福を追求している』と言うとき、追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 思考者は思考と違うでしょうか? それらは、別の過程というよりはむしろ、共通の現象ではないでしょうか? したがって、追求者が求めているものが何であるかあなたが見出そうとする前に、追求者を理解することが不可欠ではないでしょうか?

そしてそれが、自己を理解することがそんなにも不可欠で、そんなにも重要に私に思われる理由です。なぜなら自己の中に全部の問題と全部の論点があるからです。あなたは目的である、あなたは絶対である、あなたは神、これやあれであると規定すること、公式化することは明らかにあなたに逃避を与える言語化であり、それを通してあなたは確かに逃避するのです。あなたが実在のもの、あるいは虚偽のものであるとか、ないとか言うことは意味がありません。なぜなら、あなたは、どんなそのような思考のための基盤も持っていないからです。そしてあなたは、あなた自身を知っているときのみ、正しく考えることができるのです。あなた自身を知るためには、あなたは思考の一つ一つの運動に完全に気づいていなければなりません。そのとき、その気づきの中に、思考者が彼の思考と違っているかどうかを見出すでしょう。違っているなら、そのときどうやって思考を制御するかという多くの複雑な問題を私たちは持ちます。するとそのとき、あらゆる修養というばかげたことが始まります-瞑想、思考への思考者の接近。しかし彼の思考と違う思考者があるでしょうか? 思考者は、思考ではないでしょうか? それらは別個ではなく、単一の過程です。したがって私たちは思考です。思考を考えている思考者ではなく。そしてこれは直接の経験でなければなりません。思考者は思考であるというこの理解は。そしてこのような経験があるとき、そのとき、思考を超える可能性があるということが見えるでしょう。

なぜなら、結局、思考は記憶の反応にすぎないからです。そして記憶が作り出し、でっち上げ、投影するものは実在のものではありません。神は記憶の、教育の、この協会やあの協会に属することや、これやあれの教条を信じることの結果ではありません。それらは皆思考の結果にすぎず、それは記憶の、経験の反応です。しかし実在があるかどうか、神というようなものがあるかどうかを見出すためには、明らかに、最初に自己を理解することが不可欠であり、神があるかどうか、ないかどうかを思索することではありません。というのはあらゆる思索は時間の浪費であるからです。

それゆえ、私達一人一人に立ちはだかる問題を理解するためには、複雑であろうが、微妙であろうが、確かに、それらは私達の外部の、私達の思考の外部の何かではないということを理解しなければなりません-そうではなくて、これらの問題は私達自身の過程や結果なのです。世界は私達です。私達と分離しているのではなく。世界の問題は私の問題、あなたの問題です。別個に処理されるべき何かではなく。そしてこれらの問題を解決するためには-表面的ではなく、一時的ではなく、根本的に、永続的にですが-、自己の理解がなければなりません。そして自己を理解するためには、関係の中に無選択の気づきがなければなりません。そのとき、人は自分自身をそうである通りに知覚します。そしてそのとき、より十分に、深く、それに突っ込むことができます。しかしあなたのあるがままのものを、非難によって、近似、同一化によって蔽ってしまうなら、そのとき理解はなく、そのとき自己認識の過程は限定されます。自分自身を完全に、十分に、意識も無意識も理解する中でのみ、心が静かにさせられたのでなく静かであるときのみ-そのときのみ、実在を発見する、経験する、知る可能性があるのです。

それが瞑想が重要である理由です。しかし私たちの多くがふける瞑想ではありません。それはただの強制、あるいは観念への近似、あるいは心を静かにさせるための訓練にすぎません。それは子供じみています。なぜなら心を静かにさせることはできないからです。心を静かにさせるのは誰でしょうか? そのような努力は幻想につながります。それは他の時に取り扱いましょう。しかし強制を通じてではなく、何かの形の近似を通じてではなく、心が静かなとき、無理にさせられたのではなく、強いられたのではなく、順応させられたのではないとき、心がそれ自身の過程を理解することを通して本当に静かなとき-そのときのみ、永遠であるものを発見する可能性があるのです。そのとき真理を求める必要はありません。真理を求めることは真理を否定することです。なぜなら真理は得ようとして得られることがないからです。それはあなたに生じなければなりません。そしてそれは心が静かなときのみ生じることができます-静かにさすのではなくて静かなとき。そして自己認識を通じてのみ、静かさがあります。平安があります。静寂があります。』(K)


私の学習経過:

『 永続的と称する-幸福、満足、確実性。 持続する-真理、神、望む何か。
知識、経験、満足。満足はすべて消え、神の中に見出そうと思うが・・あるのか。

求めるものを理解しなければならない・・ 探求者、追求者を。
永続的な安全、幸福はないかも知れない・・真理はまったく違ったものかもしれない。

永続的な何かを追求する前に、追求者を理解することが必要。 追求者は対象と違うか。 思考者は思考と違うか・・共通の現象ではないか。追求者を理解することが不可欠。

それが、自己を理解することが不可欠・重要に思われる理由。自己の中に全部の問題と論点がある。あなた自身を知っているときのみ、正しく考えることができる。

あなた自身を知るには、思考の一つ一つの運動に完全に気づいていなければならない。 思考者は、思考ではないか。 私たちは思考です。直接の経験でなければならない。このような経験があるとき、思考を超える可能性がある。

なぜなら、結局、思考は記憶の反応にすぎないから。記憶が作り出し、投影するものは実在のものではない。神は記憶の、教育の、協会に属し、教条を信じる結果ではない。皆思考の結果にすぎず、記憶、経験の反応。

実在が、神があるかどうかを見出すには、最初に自己を理解することが不可欠。世界は私達と分離しているのではなく、世界の問題は私の問題、あなたの問題。  

自己を理解するには、関係の中に無選択の気づきがなければならない。そのとき、人は自分自身をそうである通りに知覚する。より十分に、深く、突っ込むことができる。

あなたのあるがままのものを、非難、近似、同一化によって蔽ってしまうなら、理解はなく、自己認識の過程は限定される。自分自身を完全に、十分に、意識も無意識も理解する中でのみ、心が静かであるときのみ-実在を発見、経験、知る可能性がある。

心を静かにさせるのは誰か。 努力は幻想に。心がそれ自身の過程を理解することを通して本当に静かなときのみ、永遠であるものを発見する可能性がある。

真理を求める必要はない。心が静かなときのみ生じる。自己認識を通じてのみ、静かさ、平安、静寂がある。』

指導者とはいったい何なのか・・。過去の記憶・知識・経験で成り立っている。親から始まって、学校の教師、組織・団体・会社の指導者によって・・教育・指導・支配されている。
人は自分の目で見て判断し、行動する「自己の目」と「現在形の心」を失い、社会は知識・経験・過去の人間を生産し、対立・争い・暴力・腐敗・破壊・悲惨をつくりだしている。

注目ポイント:『思考は記憶の反応にすぎない。記憶が作り出し、投影するものは実在のものではない。』