「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1246 2020/4/17

『Q: 別の戦争があるでしょうか、どれほどのうちに。
A: あなたは私から予言を望みますか。それであなたの投資を守ることが出来ますか。さて、なぜ私たちはそのような質問を尋ねるのでしょうか。戦争になろうとしているかどうか、あなたはわからないのでしょうか。新聞からでなく、政治的指導者からでなく-というのは、結局、あなたはあなたの混乱にしたがって、指導者を選ぶからです。混乱すればするほど、あなたはますます多くの指導者を持ちます。あなた自身の中で、混乱がより少なくより明確であればあるほど-それはあなたの学習を通じてではありません-あなたはより指導者を必要としません。それで、あなたは戦争になろうとしているかどうか、独力でわからないのでしょうか。

戦争とはどういうことでしょう。戦争はただ劇的な、スリルある流血の惨事ではありません。それは最終段階です。しかし、私達は絶えず私達自身と、それゆえ環境と、隣人と、戦争していませんか。確かに、私達が戦争していると教えられる必要はありません。私達がそうであるもの、私達は世界をそうあらしめるのです。私達が国家主義的である限り戦争は不可避です。あなたが英国人で私がインド人である限り、確かに戦争があるでしょう。国境、統治政府、別々の軍隊がある限り、きっと戦争があるはずです。社会的経済的区別、異なるカーストと階級の排除がある限り、きっと戦争があるはずです。

私達は皆これを知っています。多分あなたは一二の歴史の本を読み、歴史の表面的知識を持っているかもしれません。これらは戦争の明白な原因です。ひとつの国が他の国に勝りたいと思い、一つの団体が他の団体に劣ると感じるとき。偏見があるとき-白と黒と褐色と紫、あるいは何であっても。どうやってこういったものが生じると思いますか。明らかに、私たちの現状を、私達は守ります。世界は私達自身の、私達の自己投影の結果です。それゆえ、あなたは『寛容』であるかもしれないけれども、あなたが国家主義的である限り、あなたの信念の中で排外的である限り、戦争はあるでしょう。寛容は利口な人々によって案出された、心に属するものです。愛するとき、「寛容」にしません。あなたと私がもはやカースト、階級に束縛されていないときのみ、私達が何かの形の宗教、組織された信仰に、それが小さくても大きくても、束縛されていないときのみ、私達がもはや権力に、地位に、権威に、安心感に貪欲でないときのみ-そのときのみ平和があるでしょう。平和は立法の結果ではありません。平和は国連によってもたらされるのではありません。どうして外部の法律があなたを平和にできるでしょうか。どうして外部の強制があなたを愛させることができるでしょうか。そしてあなたを平和にすることを、あなたを親切に、貪欲でないようにすることを外部の権威に頼るなら、そのときあなたは決して生じることのない何かを当てにしているのです。それゆえ、戦争は-物理的レベルの上であろうが、意識のさまざまなレベルの上においてであろうが、それはまったく同じことです-、葛藤は、あなたと私が国家主義を通して、信仰を通して、錯覚を通して、私達自身の特定の安全を目指して努力している限り、不可避です。私達は単に葛藤を私達自身の中に、それゆえ外部に永続させているに過ぎないのです。

私たちはみんなこれらの事を知っていますね。町角のあらゆる牧師がそれらについて話します。しかし私たちは平和的ではありません。私たちは貪欲であることをやめていません。金銭に貪欲でないかもしれませんが、より多くのものごと、より多くの力、一層の自己拡大に貪欲です。今、あるいはある将来の日に何かであることを望んで。この階層制的・社会的発達、あるいは内的な発達の感覚全体-このすべては明らかに、結局は葛藤に、戦争に、破壊と悲惨に帰着する過程を示しています。私たちは皆これらの事を知っていますが、依然として、なぜそれらが存在し続けるかを尋ねません。確かに、私たちがなぜ感じることを生きないのかを見出すことがずっと重要です。たぶん私達はそれらを感じないのです。たぶん私達は「戦争があるに違いない」と言って、単に言葉のレベルで生きているだけなのです。私たちはみな友愛を信じ、友愛を信じるさまざまな組織に参加するでしょう。しかし内的に私たちは、事務所に腰掛けて戦争を計画する人と同様に堕落しているのです-なぜなら私達は家庭の中で、団体の中で、社会の中で、国の中で、何者かでありたいからです。私達は力を欲します。私達は何でもないものとしてあることに満足しません。なぜなら私達は外側の刺激、外側の見せ物を求める欲望によってひどく動かされてしまうからです。なぜなら内的に私達は空虚であるからです-そしてそのことを私たちはひどく恐れているのです。したがって、私達は観念にしろ物にしろ所有物を山積みにします。そして私達が何でもないものとしてあることに満足しているときのみ-それは根本的に、充足の、怠惰、無気力、愚かさの満足ではありません-、私達があるがままのもので満足しているときのみ、それはあらゆる逃避の途方もない理解を必要としますが、そのときのみ平和があるでしょう。』(K)


私の学習経過:

『 あなたは混乱にしたがって指導者を選ぶ。混乱が少なく明確であれば指導者を必要としない。

私達は絶えず自身、環境、隣人と、戦争していないか。私達が国家主義的である限り戦争は不可避。

世界は自己投影の結果。国家主義的、排外的である限り戦争。階級、信仰に束縛されない、権力、地位、権威に貪欲でないときのみ-平和。

階層制的・社会的発達、内的な発達の感覚全体-すべては葛藤、戦争、破壊と悲惨に帰着する過程。

私達は友愛を信じ、組織に参加する。内的に、事務所で戦争を計画する人と同様に堕落-家庭、団体、社会、国の中で、何者かでありたいから。

私達は力を欲し、外側の刺激を求める欲望に動かされ、内的に空虚であるから-ひどく恐れて・・観念、物、所有物を山積みにする。

私達があるがままのもので満足しているときのみ、あらゆる逃避の理解を必要とするが、そのときのみ平和がある。

世界は私達の自己投影の結果―権力、地位、権威、安心感に貪欲。

葛藤は、あなたと私が国家主義、信仰、安全を目指して努力している限り、不可避。

私たちは貪欲をやめていない―より多くの力、一層の自己拡大に貪欲。将来に何かを望んで。何者かでありたいから。

内的に空虚であるから-そのことをひどく恐れている。私達は観念、物、所有物を山積みにする。

私達があるがままのもので満足しているときのみ、逃避の途方もない理解を必要とするが、そのときのみ平和がある。


親も指導者も社会も、そして私たちも・・『内的に空虚』だから、『恐れている』から、『権力、地位、権威に貪欲』『すべては葛藤、戦争、破壊と悲惨に帰着する』・・それが人類の積み重ねてきた足跡なのだ。人間は、世界を、地球を・・いまも破壊し続けている・・・。