「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1248 2020/6/17

『 たぶん私たちの大部分は確定した見解を持っています。あるいは確定した結論に達しており、それから外れること、あるいは別の観点から見ることは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は非常に痛ましく生きており、苦しんでいるからです。そして私たちは特定の見解に達しており、それを変えるのは困難であることを見出します。そして、ともかくも他の人の言うことを聞くなら、私達自身の結論、私達自身の経験、私達自身の知識というスクリーンを通して聞くのです。それで他の人の言うことを十分かつ完全に理解することは極めて困難です。それで、提案してよろしければ、私たちはしばらくの間、少なくとも今朝の間、私たちの特定の結論と見解を脇において、私たちに立ちはだかる問題を共に熟慮しようとしなければなりません。結論を欲しがること、種々の問題に答えを欲しがることが私たちの抱える難しさであるでしょう。しかし、生じるそれぞれの問題を十分聡明に、それは結論によって束縛されることなしに、確定した意見なしにということですが、調べることができるなら、そのとき、たぶん、問題を十分に、統合的に理解できるでしょう。

私たちの生における問題の一つは、個人と彼の国家に対する関係の問題ではないでしょうか。たぶん、個人の過程全体を理解できるなら、そのとき、私たちは、一人や二人の人に対してではなく、多数、大衆、国、全体としての人々に対しての私たちの関係を理解できるでしょう。そこで国家と個人の間のこの分割は誤りがあると私には思われます。なぜなら、何といっても、国家が、私たちがそうであるものであるように私たちはするからです。私たち一人一人がそうであるものを私たちは投影します。これは非常に単純な哲学、非常に単純な観念であり、調べる価値がないように思われるかもしれません。なぜなら、私たちの心は非常に複雑であり、私たちは非常にたくさん読んでおり、非常に聡明で、利口で、そのため問題を単純に考えることができないからです。しかし、この高度に複雑な問題を非常に直接かつ単純に考えなければならないと私には思われます。なぜなら、何といっても、複雑な問題はそれに否定的に近づくときのみ、十分に理解することができるからです。そして個人と彼の過程を理解することの中で、私たちはたぶん個人の国家に対する、あるいは大衆に対する、あるいは他の個人に対する関係を理解するでしょう。

それゆえ、私にとっては、国家に対する個人の関係の問題は、私たちが個人の過程を理解するときのみ理解することができるのです。なぜなら、個人なしには、国家はないからです。

大衆というようなものはありません。それは種々の目的、搾取などに都合のよい政治的手段です。そしてまた、私たちの大抵にとっては、大衆について話すとき、それは人々を始末する便利なやり方です。なぜなら、個人を見ること、他人を見ることは多くの注意、思考、熟慮を必要とするからで、私たちはそれを注ぎたくありません。それゆえ、私たちは彼等を大衆と呼びます-そして大衆は私達自身、あなたと私、です。

社会と呼ぶ投影全体を、そのあらゆる複雑さを含めて理解するためには、確かに私たち自身を理解しなければなりません。しかし私たちの大抵は私たち自身を理解するのが気が進まないのです。なぜなら、それはつまらない飽き飽きする仕事だからです。そして私たちはそれはあまり意義を持っていない、自分を理解することはどこへも通じないと思います。ところが、もし私たちが社会の中にある改革、ある改変をもたらすように働くことが、手伝うことができるなら、たぶん、それは価値があるでしょう。そしてまた、自己を理解することの中で私達は不可避的に自己中心的に、自己閉鎖的になるという印象があるのです。

確かに、自分自身および、個人がいまそうであるものの過程全体を十分に理解することは、孤立でなく、隠遁でなく、関係を理解することを必要とします。なぜなら、何といっても、すべての行為は関係であるからです。関係のない行為はありません。そして、他人との私の関係の中に敵意、貪欲、羨望がないなら、葛藤をもたらす種々の原因のすべてがないなら、確かに、私はその関係の結果である社会を創造するでしょう。それゆえ、私自身を理解することは自己中心的過程ではありません。それどころか、それは関係の気づきを必要とします。したがって、関係は私が私自身を発見する、私自身を見る鏡です-それが一人の人との関係であろうと、多くの人との、社会との関係であろうと。そして社会の中に抜本的な変革を望むなら、私は明らかに私自身を理解しなければなりません。

これはむしろ、あまり意義がなく、子供じみて幼稚に聞こえるかもしれません。しかしそれはそう簡単でも、そんなに容易に払いのけられてしまうとも私は思いません。』(K)


私の学習経過:

『 私たちは確定した見解・結論に達して、別の観点から見ることは非常に困難。他の人の言うことを、自身の結論、経験、知識を通して聞くので、十分・完全に理解するのは極めて困難。

特定の結論と見解を脇において、問題を共に熟慮しなければならない。生じる問題を結論なしに調べるなら、問題を十分に統合的に理解できる。

個人の過程全体を理解できるなら、多数、国、全体の関係を理解できる。私たちの心は非常に複雑、たくさん読み、非常に聡明、利口で、問題を単純に考えることができない。高度に複雑な問題を直接・単純に考えなければ。複雑な問題は否定的に近づくときのみ、十分に理解できる。

社会と呼ぶ投影全体を、理解するには、私たち自身を理解・・気が進まない、飽き飽きする仕事・・意義を持たない、どこへも通じないと思う。社会の中に改革をもたらすように働くことができるなら、価値がある。

自分自身、個人の過程全体を理解することは、孤立、隠遁でなく、関係を理解する必要・・すべての行為は関係であるから。関係のない行為はない。他人と私の関係の中に敵意、貪欲、羨望、葛藤の原因のすべてがないなら、私は関係の結果である社会を創造する。それゆえ、私自身を理解することは自己中心的過程ではない。それどころか、関係は私が私自身を発見、私自身を見る鏡-一人であろうと、多くの人、社会との関係であろうと。社会の中に抜本的な変革を望むなら、私は明らかに私自身を理解しなければならない。』

自分の外との、他者との関係から・・自分というものが見えてくる。知識とか経験なしに、つまり過去の記憶を捨てて、現在の何もない「現在形」の心の中から外部を「新しく」見る、聴く、知る・・ということのようですが・・これは、教えられ、知識を身に着けるほど、成長するほどに・・困難なことのように思われます。関係は自分を見る鏡であり、その中から「自己認識」が育てられるようです。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1248 2020/6/17