「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1249 2020/7/20

『 あなたは「歴史に影響するように、個人が何をすることができるでしょうか」と言うかもしれません。彼の人生で何をすることができるでしょうか。あなたが戦争を即座に止めるだろうとか、様々な人の間により良い理解をもたらすだろうとは私は思いません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでいます。私の直接の関係の世界の中に-それが私の上司、妻、子供、あるいは隣人とであっても-その場所で、少なくとも、私はある改革、ある変革、ある理解をもたらすことができます。私はロシヤ人や、ドイツ人や、インド人に理解をもたらすことはできないかもしれません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでおり、ある平和、ある幸福、ある愛、愛情、その他もろもろがあり得ます。そして私は思うのですが、それは世界に大きく広く影響しないかもしれないけれど、少なくとも私は核、異なった価値、異なった理解と意義の中心であり得ます。そしておそらくそれは世界に徐々に変革をもたらすでしょう。

しかし、確かに、私達は基本的に世界の変革にかかわっていません。なぜなら私のすること、あなたのすることはあまり影響を持たないでしょうから。しかし私が貪欲であることを止めることができるなら-表面的でなくて深く-、私が野心的であるのを止めることができるなら、そのとき、たぶん、私は新しい息吹、新しい理解を生にもたらすことができるでしょう。そして確かに、それはもっとも効果的で直接の行為ではないでしょうか-自己のなかに変容、根本的な変化をもたらすために。というのは何といっても、それがすべての大きな運動が、個人で、自分自身で、始められるやり方であるからです。それゆえ、国に対する私の関係-あるいはあなたの関係、個人の関係-は、私が私自身の全過程を理解するときのみ、理解されることができ、そしてその関係の中の変化がもたらされるのです。

どうか、「これは幼稚で愚かだ。それは世界に影響しない」と言って、これを無視しないでください。何が世界の中で根本的影響を持っているのでしょうか。大衆運動。それとも、その根本的影響は自己中心的、利己的、自己閉鎖的でない、彼らの利益と野心を投影しない少数の創造的な人たち、本当に利己主義から自由である少数の人たちによってもたらされるのでしょうか。

それゆえ、これを理解するためには、人は過程を知らなければなりません。行為の中の、それは関係ですが、自分自身に気づいていなければなりません。私たちのあるがままを理解することの中で、私達は私達に立ちはだかる多くの問題に対する解答を見出すでしょう。私達のあるがままを表面的に、心の上部のレベルで理解するだけでなく、自己の内容全体を知って。隠れたものも明らかなものも。表面的なレベルも私達の意識の多くのレべルも。現在はそれに私達は気づいていないのです。たぶん私達は稀な瞬間、それらに気づくでしょう。しかし、全ての隠れたものを意識の中にもたらし、それで個人的な、利己的な、狭量な意図と追求を解消し、それによって正しい関係を確立することは、もっとも重要なことと私には思われます。それが私が価値があると感じる唯一のことです-討論し、話し、生きている間に。表面的だけでなくて内的に、どうやって貪欲から自由になるかが。なぜならそれが葛藤の原因の一つであるからです。そうではないでしょうか-貪欲、物、所有を求めるだけでなく、力を求める貪欲、知識を求める貪欲、名声を求める貪欲。そして貪欲を理解するためには、確かに、多量の注意が必要です-誰が貪欲であるか見出すとか、貪欲でない人のパターンを模倣するためではなく、貪欲であるものとしての自己に気づいているため、そしてその貪欲のあらゆる含蓄を追い、理解するためには。なぜなら、明らかに、貪欲は社会的影響を持っているからです。貪欲であり、力を追求している個人が、同じように力、地位、名声を求めて貪欲であるグループや国をもたらすからです。それは戦争を引き起こします。

貪欲から自由であること、そして貪欲の結果、暴力の結果に他ならない社会の中に生きることが出来るでしょうか。私はその質問は直接の経験を通してのみ答えることができると思います。言葉の上だけで貪欲から自由であろうとするのではなくて、私達が非貪欲の経験、本当の経験、を知るときに。何といっても貪欲はそれ自身を非常に多くのやり方で表現します-真理への貪欲、地位への貪欲、幸福への貪欲、そして物への、安全への貪欲。外部の物理的安全は、内部の心理的安全がないとき、否定されるのでしょうか。各人が彼自身の安全を追求することなしに、この世界に生きることはできないでしょうか。何といっても私達一人一人が物理的安全より、ずっと心理的安全を求めています。私達は所有物、物、外部の安全を、心理的安全の手段として使います。物理的必要が心理的必要性になるとき、そのときその心理的必要性は外部の安全を破壊します。私たちはこれを考えぬくことができます-それは非常に明白です。私が、物、所有物、財産を自己表現の手段として、攻撃的な、自己投影の生存の手段として用いている限り、そのとき、必要は最重要になります。そのとき、物、財産、はもっとも支配的になります。なぜなら、私は物、財産を私の内部の心理的安全のために使用しているからです。』(K)


私の学習経過:

『 「歴史に影響する・・個人が何をできるか」と言う。世界の中で、私はある改革、理解をもたらし、平和、幸福、愛情があり得る。世界に大きく広く影響しないが、異なった価値、理解と意義の中心であり得、世界に徐々に変革をもたらす。

私達は基本的に世界の変革に影響を持たない。しかし私が貪欲、野心を止めるなら、新しい息吹、理解を生にもたらす。国に対する私の、あなたの、個人の関係-は、自身の全過程を理解するときのみ、理解でき、関係の中の変化がもたらされる。

理解するには、過程、行為、関係―自分自身のあるがままを理解する中で、多くの問題に対する解答を見出す。個人的な、利己的、狭量な意図と追求を解消し、正しい関係を確立することは、もっとも重要なこと・・私が価値があると感じる唯一のこと。

物、所有、力、知識、名声を求める貪欲を理解するには、多量の注意が必要。貪欲で、力を追求している個人が、力、地位、名声を求めて貪欲であるグループや国をもたらし・・戦争を引き起こす。

貪欲から自由で、貪欲、暴力の結果の社会の中に生きることが出来るか。各人が彼自身の安全を追求することなしに、この世界に生きることはできないか。

私達は所有物、物、外部の安全を、心理的安全の手段として使う。物理的必要が心理的必要性になるとき、外部の安全を破壊する。私は物、財産を私の内部の心理的安全のために使用しているから。』

社会の、世界の、そして私たちの生活を支配している・・物や知識を求める所有から、地位・名声・権力まで獲得しようとする貪欲・野心を育てる子育て・教育・競争社会があって・・・いまの社会の暴力・破壊・戦争・・の背景に見えてくる。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1249 2020/7/20