「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1250 2020/8/17

『 そしてなぜ私たちは内側で安全を望むのでしょうか。外側で、物質的に安全であることは不可欠です。さもなければ私たちは生きることができません。もしも私が普通の食事を持たず、あなたも持たないなら、あなたと私はここにいることはできないでしょう。私たちは外的な安全を持たなければなりません。しかし私は、私たちが外的な安全を内的拡張の、貪欲の内部的な追求の手段として使用するとき、私達の安全は否定される、破壊されると感じます。なぜなら、そのとき、私達は物を必需品として用いるのではなくて、それらに心理的意味を与えるからです。財産はそのとき私達にとって心理的な生き残りの手段となります。何といっても、称号、地位、位階、富は心理的生き残り、心理的確実性、安全の手段として用いられているのではないでしょうか。そして物を通じて心理的安全を求めている限り、物に関して争いがきっとありますね。

内的に安全、心理的に確実であることなしに、関係の中に生きることが出来るでしょうか。何といっても、それが「確実」、「安全」という言葉で私たちが言っていることです。私たちの大抵は、物理的安全から離れて、心理的安全を求めているのではないでしょうか。私達は環境に依存する、その他で、多かれ少なかれ、物理的安全を持たなければなりません。しかし心理的な安全の必要があるでしょうか。私たちはそれを望みますか。私たちはそれを求めているけれど、私達の永遠の追求は内的に安全であることであるけれど、それは間違った過程、間違った生への接近ではないでしょうか。内的な安全があるでしょう。あなたと私はそれを望むかもしれません-しかし内的な安全というようなそんなものがあるでしょうか。私が関係の中で確かであることを望むとき-それが観念、人、物のどれとであろうが-私はその関係の中に安全を、その関係の中に内的な確実性を見つけるでしょうか。

そして、私が私の関係の中で安全であるなら、それは関係でしょうか。私があなたを妻やボス、友人として固く信じているなら-私の内的な安全の道具としてあなたを用いているという意味において固く信じているなら-私達の間に関係はあるでしょうか。私があなたを利用しているとき、あなたと私の間に何かの関係があるでしょうか。私があなたを私の内的な安全の手段として利用している限り、私達の関係は何なのでしょうか。あなたは私にとって、ただの役に立つ道具であるだけです。私はあなたに関係していません。あなたは使われるべき一個の家具です。すなわち、内的に、心理的に、私は貧しく、空虚で、不充分です。それゆえ、私はあなたを、私自身を覆い隠す手段として利用します。そしてそのような利用を私達は愛、あるいはあなたの好むもの、と呼ぶのです。

この逃避を、財産や、人々、観念との関係のどれであろうが、私達は関係と呼ぶのです。そして、確かに、そのような関係は不可避的に葛藤、悲しみ、災厄をつくり出すに違いありません。そしてそれが私たちが生きている状態です-私達自身の内部の貧しさを覆い隠す手段として、人、物を利用して。したがって、私たちが利用するものが最重要になります。人、所有物、観念、信念、が最重要になります。なぜなら、それらなしには私達は途方に暮れてしまうからです。したがって、もっと知識、もっと人、もっと物。しかもなお、私達のあるがままを、私達は決して理解してきていません。そして心理的安全を求めている限り、私達は決して私達自身を理解しないであろうと私には思われます。しかし、私達が人々、物を、私達自身からの私達自身の逃避のために利用しているということに気づいているとき、その逃避に気づいていることが、確かに異なった関係をもたらします。そのとき人や、観念、物はもはや本質的に重要ではありません。したがって、私達は物、人にそのように愛着しません。そのとき財産の問題への聡明な接近があります。しかし、私が私の内部の貧困を覆い隠す手段として財産を利用している限り、私はそれに聡明に接近することができません。なぜなら、物に愛着している限り、私達はそれらの物なのです。財産に愛着している限り、あなたは財産なのであり、精神的な存在ではないのです。それはただのたくさんのごまかし話しです。あなたが信念に愛着している限り、あなたはその信念です。あなたが人に愛着している限り、あなたはその人です。そして私達自身の中で空虚であり、私達自身の中で何ものでもないので、私達はそんなにも必死に愛着するのです。その空虚を恐れて、自己投影された外部の物、観念、理想に私達はしがみつくのです。

それゆえ、この関係の問題は表面的に、あるいは言葉の上で理解したり、あるいは本の中で読むことはできません。だがその意味全体は、その複雑さとその途方もない深さを含んで、私たちがお互いとの関係に気づいているときのみ理解することができます。そしてその関係のあるがままが、社会なのです。自分自身を理解することなしに単に友愛を語ることは意味を持ちません。あなたは協会に参加し、友愛のためのグループを作るかもしれません。しかし、協会や人や物をあなたの内部の安全の手段として用いている限り、あなたはきっといっそうの葛藤、いっそうの錯覚、いっそうの苦痛を世界の中につくり出すはずです。それが起こっていることです。ちょうど自分自身の貧しさを覆い隠し、自己を特定の国に同一化させる手段として用いられた国家主義が戦争に通じるように。

重要なことは自分自身を理解すること、そして自分自身に直面することです。私たちが避けているあの貧困、私たちが皆避けているあの空虚さに。そしてそれを私たちが理解する、非難なしに、実際にそれを経験するとき、十分にその空虚さに関係するとき、そのときのみ、超えること、そして真実とは何か、神とは何かを発見することの可能性があるのです。』(K)


私の学習経過:

『 なぜ私たちは内側で安全を望むのか。外側で、物質的に安全であることは不可欠。

外的な安全を、貪欲の内部的な追求の手段として使用するとき、私達の安全は否定、破壊される。

地位、位階、富は心理的生き残り、確実性、安全の手段・・物を通じて心理的安全を求める限り、争いがある。

私達は心理的な安全を求めているが、間違った過程、接近ではないか。

私があなたを内的な安全の手段として利用する限り、私達の関係は役に立つ道具であるだけ。私はあなたに関係していない。

内的、心理的に、私は貧しく、空虚で、不充分。私はあなたを、私自身を覆い隠す手段として利用し、愛、好むものと呼ぶ。

私達自身の内部の貧しさを覆い隠す手段として、人、物を利用し、所有物、観念、信念、が最重要になる。

私達のあるがままを、決して理解していない。心理的安全を求めている限り、私達は決して私達自身を理解しない。

私達が人々、物を、私達自身の逃避のために利用していることに気づいているとき、異なった関係をもたらす。

私が内部の貧困を覆い隠す手段として財産を利用する限り、聡明に接近することができない。なぜなら、物に愛着している限り、私達は物なのです。財産に愛着する限り、あなたは財産であり、精神的な存在ではない。

あなたが信念に愛着している限り、あなたはその信念です。あなたが人に愛着している限り、あなたはその人です。
私達自身の中で空虚で、何ものでもないので、私達はそんなにも必死に愛着するのです。空虚を恐れて、自己投影された外部の物、観念、理想に私達はしがみつくのです。

関係の問題は表面的に、言葉の上で理解し、本の中で読むことはできない。その意味全体は、複雑さと途方もない深さを含んで、私たちがお互いとの関係に気づいているときのみ理解できる。その関係のあるがままが、社会なのです。

自分自身を理解することなしに友愛を語ることは意味を持たない。協会に参加し、友愛のグループを作るかもしれないが、協会や人や物をあなたの内部の安全の手段として用いている限り、いっそうの葛藤、錯覚、苦痛を世界の中につくり出すはず。

重要なことは自分自身を理解すること。私たちが避けている貧困、空虚さ・・それを私たちが理解する、非難なしに実際に経験する、十分に空虚さに関係するとき、そのときのみ、真実とは何かを発見する可能性がある。』


・・・人・物・財産・・知識・信念・・文化・科学技術・発展・・・・・

私たち人間とは、社会とは・・そして、教育・成長とは何なのか・・・。そんなことを、あらためて考えてしまう・・いまの現実があります。社会の、世界の動きと・・地球の歴史があります。

人は、社会は、教育は・・そして、新聞紙面・TV画面・ネットに映し出される現実は、人々の表情は・・どうなっているのか・・・。

物・金・財産・知識・信念・・そして、政治は、世界は・・どのように動いているのか、歴史的に積み重ねてきた文化・文明・学問は・・何なのか・・・改めて考えさせられます。