「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1251 2020/9/23

『 Q:私は非常に努力しましたが、酒を止めることができません。私はどうすべきでしょうか。

A: 私たち一人一人がさまざまな逃避を持っていますね。あなたは酒を飲み、私は大師に従う。あなたは知識にふけり、私は娯楽に。すべての逃避は同じようなものではないでしょうか。ある人が酒を飲もうが、大師に従おうが、知識にふけろうが。それらは確かに全て同じです。なぜなら意図、目的は逃避することであるからです。たぶん飲酒は社会的価値を持っているかもしれません。あるいはより有害かもしれません。しかし私は観念的な逃避がより悪くはないということがまったくはっきりしません。それらはずっと微妙で、より隠れていて、気づくのにより困難です。礼拝、儀式にふける人は、飲酒にふける人と違いません。なぜなら両者とも刺激物を通して逃避しようとしているからです。

そして私は逃避を止めることは、あなたが逃避していることに、これらあらゆるもの-酒、大師、儀式、知識、国への愛、あなたの望むもの-をあなた自身から逃げるための刺激物、感覚として利用していることに気づいているときのみ可能だと思います。とにかく、飲酒をやめる様々なやり方があります。しかしあなたが単に飲酒を止めるに過ぎないなら、他の何かを取り上げるでしょう。国家主義者になったり、世界の反対側の教師の誰かを追いかけたり、観念的に空想ばかりするようになるかもしれません。

確かに、逃避の理由は明白です。私たちは私達自身に、私達の状態に、外部的にも内部的にも不満なのです。それで私たちは多くの逃避を持っています。そして原因を発見するとき、逃避、飲酒、を理解する、解決するだろうと私たちは思うのです。逃避の原因を知るとき、私たちは逃避するのを止めるでしょうか。妻と喧嘩しているので、あるいはいやな仕事を持っているので 私が酒を飲んでいることを知るとき-私が原因を知るとき、私は飲むことを止めるでしょうか? 確かに止めません。妻と、他人と、正しい関係を確立し、苦痛を引き起こしている葛藤を除去するときのみ、私は飲酒をやめるのです。

すなわち、違ったふうに述べれば、私が自己達成、その中に欲求不満があります、を求めている限り逃避があるに違いありません。私が欲求不満を抱いている限り、逃避を見出すに違いありません。私が何かであることを望んでいるとき-政治家、指導者、大師の弟子、何でも-私が何かであることを望んでいる限り、私は欲求不満を招いているのです。そして欲求不満であることは苦痛なので、それからの逃避を捜します。それが飲酒、大師、儀式、政治家になることのいずれにせよ-それが何であるかは問題ではありません。それらはすべて同じものです。

それで、そのとき質問が起こります。自己達成はあるのでしょうか。自己、私、は何かであることが、何かになることが出来るでしょうか。そして何かになろうと望む私は何でしょうか。私は記憶の束、現在と反応している記憶の連鎖です。私は現在と関連している過去の結果です。そしてその私は家族を通して、名前を通して、財産を通して、観念を通して、それ自身を永続させようと望みます。私は単に観念、満足させ、興奮を与える観念にすぎません。そしてそれに心は執着します。心がそれなのです。そして心が私として達成を求めている限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私が何かであるものとして私自身に重要性を与える限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私があらゆるものの、私の思考、私の反応の中心である限り、私が私自身に重要性を与える限り、欲求不満があるに違いありません。したがって、苦痛があるに違いなく、そしてその苦痛から、無数のやり方を通して、私たちは逃避しようとするのです。そして逃避の手段は同じようなものなのです。

それゆえ、逃避の手段のことで心配しないようにしましょう-あなたのが私のより勝れているかどうかで。重要なことは、自己に達成を求めている限り、悲惨、争いがあるに違いないということを理解することです。そしてこの悲惨は、自己が重要である限り、私が重要である限り、避けることができません。

それで、あなたは「こういったすべてで、飲酒がどうにかなりましたか。あなたは私の質問、どうやって飲酒をやめるかに答えていません。」と言うでしょう。私は飲酒の問題は何かの他の問題と同じように、私が私自身の過程を理解するとき、自己認識があるときのみ、理解され、終りにすることが出来ると思います。そしてその自分自身の理解は絶え間のない用心深さを必要とします-結論ではなく、あなたがしがみつける何かではなく、思考と感情のあらゆる動きについての絶え間ない気づき。そして、そのように気づいていることはうんざりするので、それで私たちは「おお、それはそれだけの値打ちがない」と言います。私たちはそれを脇に押しのけ、したがって悲しみ、苦痛は増します。しかし確かに、自分自身を全体的過程として理解することの中でのみ、私たちは私たちが持つ無数の問題を解決するのです。』(K)


私の学習経過:

『 人が酒を飲もうが、大師に従おうが、知識にふけろうが全て同じ・・意図、目的は逃避・・社会的価値、有害かも・・礼拝、儀式にふける人は、飲酒にふける人と違わない・・両者とも刺激物を通して逃避。

逃避を止めることは・・あなたが逃避して、あらゆる-酒、大師、儀式、知識、国への愛、望むものを・・自身から逃げる刺激物、感覚として利用・・と気づいているときのみ可能。

逃避の理由は明白・・私達自身、状態、外部的・内部的にも不満・・多くの逃避を持っている。原因を発見するとき、逃避、飲酒、を理解する、解決するだろうと私たちは思う。逃避の原因を知るとき、逃避するのを・・確かに止めない。妻と、他人と、正しい関係を確立し、苦痛の葛藤を除去するときのみ、私は飲酒をやめる。

私の自己達成の中に欲求不満があり、求めている限り逃避がある。私が政治家、指導者、何かであることを望んでいる限り、欲求不満を招いて・・苦痛なので、逃避を捜す。それが飲酒、大師、儀式、政治家になることのいずれにせよ-何であるかは問題ではない、すべて同じもの。

私は家族、名前、財産、観念を通して、自身を永続させようと望む・・単に観念、満足、興奮を与える観念にすぎない・・心は執着。心が達成を求める限り、私自身に重要性を与える限り、あらゆる思考、反応の中心である限り、欲求不満・苦痛がある、その苦痛から、無数のやり方を通して、私たちは逃避しようとする。逃避の手段は同じようなもの。

重要なことは、自己に達成を求めている限り、悲惨、争いがあるに違いないことを理解すること。悲惨は、自己が重要である限り、避けることができない。

自分自身の理解は絶え間のない用心深さを必要-結論、しがみつける何かでなく、思考と感情のあらゆる動きについての絶え間ない気づき。自分自身を全体的過程として理解することの中でのみ、私たちは私たちが持つ無数の問題を解決する。』(K)

礼拝、儀式は、飲酒違わない・・両者とも刺激物を通して逃避。知識、家族、名前、財産、観念・・私自身に重要性・達成を求める限り・・欲求不満・苦痛・悲惨、争いがある。それは、いまの社会・世界の・・そして教育の、政治の、科学技術の、文化の、スポーツの世界に見ることができる。