「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1251 2020/9/23

『 Q:私は非常に努力しましたが、酒を止めることができません。私はどうすべきでしょうか。

A: 私たち一人一人がさまざまな逃避を持っていますね。あなたは酒を飲み、私は大師に従う。あなたは知識にふけり、私は娯楽に。すべての逃避は同じようなものではないでしょうか。ある人が酒を飲もうが、大師に従おうが、知識にふけろうが。それらは確かに全て同じです。なぜなら意図、目的は逃避することであるからです。たぶん飲酒は社会的価値を持っているかもしれません。あるいはより有害かもしれません。しかし私は観念的な逃避がより悪くはないということがまったくはっきりしません。それらはずっと微妙で、より隠れていて、気づくのにより困難です。礼拝、儀式にふける人は、飲酒にふける人と違いません。なぜなら両者とも刺激物を通して逃避しようとしているからです。

そして私は逃避を止めることは、あなたが逃避していることに、これらあらゆるもの-酒、大師、儀式、知識、国への愛、あなたの望むもの-をあなた自身から逃げるための刺激物、感覚として利用していることに気づいているときのみ可能だと思います。とにかく、飲酒をやめる様々なやり方があります。しかしあなたが単に飲酒を止めるに過ぎないなら、他の何かを取り上げるでしょう。国家主義者になったり、世界の反対側の教師の誰かを追いかけたり、観念的に空想ばかりするようになるかもしれません。

確かに、逃避の理由は明白です。私たちは私達自身に、私達の状態に、外部的にも内部的にも不満なのです。それで私たちは多くの逃避を持っています。そして原因を発見するとき、逃避、飲酒、を理解する、解決するだろうと私たちは思うのです。逃避の原因を知るとき、私たちは逃避するのを止めるでしょうか。妻と喧嘩しているので、あるいはいやな仕事を持っているので 私が酒を飲んでいることを知るとき-私が原因を知るとき、私は飲むことを止めるでしょうか? 確かに止めません。妻と、他人と、正しい関係を確立し、苦痛を引き起こしている葛藤を除去するときのみ、私は飲酒をやめるのです。

すなわち、違ったふうに述べれば、私が自己達成、その中に欲求不満があります、を求めている限り逃避があるに違いありません。私が欲求不満を抱いている限り、逃避を見出すに違いありません。私が何かであることを望んでいるとき-政治家、指導者、大師の弟子、何でも-私が何かであることを望んでいる限り、私は欲求不満を招いているのです。そして欲求不満であることは苦痛なので、それからの逃避を捜します。それが飲酒、大師、儀式、政治家になることのいずれにせよ-それが何であるかは問題ではありません。それらはすべて同じものです。

それで、そのとき質問が起こります。自己達成はあるのでしょうか。自己、私、は何かであることが、何かになることが出来るでしょうか。そして何かになろうと望む私は何でしょうか。私は記憶の束、現在と反応している記憶の連鎖です。私は現在と関連している過去の結果です。そしてその私は家族を通して、名前を通して、財産を通して、観念を通して、それ自身を永続させようと望みます。私は単に観念、満足させ、興奮を与える観念にすぎません。そしてそれに心は執着します。心がそれなのです。そして心が私として達成を求めている限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私が何かであるものとして私自身に重要性を与える限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私があらゆるものの、私の思考、私の反応の中心である限り、私が私自身に重要性を与える限り、欲求不満があるに違いありません。したがって、苦痛があるに違いなく、そしてその苦痛から、無数のやり方を通して、私たちは逃避しようとするのです。そして逃避の手段は同じようなものなのです。

それゆえ、逃避の手段のことで心配しないようにしましょう-あなたのが私のより勝れているかどうかで。重要なことは、自己に達成を求めている限り、悲惨、争いがあるに違いないということを理解することです。そしてこの悲惨は、自己が重要である限り、私が重要である限り、避けることができません。

それで、あなたは「こういったすべてで、飲酒がどうにかなりましたか。あなたは私の質問、どうやって飲酒をやめるかに答えていません。」と言うでしょう。私は飲酒の問題は何かの他の問題と同じように、私が私自身の過程を理解するとき、自己認識があるときのみ、理解され、終りにすることが出来ると思います。そしてその自分自身の理解は絶え間のない用心深さを必要とします-結論ではなく、あなたがしがみつける何かではなく、思考と感情のあらゆる動きについての絶え間ない気づき。そして、そのように気づいていることはうんざりするので、それで私たちは「おお、それはそれだけの値打ちがない」と言います。私たちはそれを脇に押しのけ、したがって悲しみ、苦痛は増します。しかし確かに、自分自身を全体的過程として理解することの中でのみ、私たちは私たちが持つ無数の問題を解決するのです。』(K)


私の学習経過:

『 人が酒を飲もうが、大師に従おうが、知識にふけろうが全て同じ・・意図、目的は逃避・・社会的価値、有害かも・・礼拝、儀式にふける人は、飲酒にふける人と違わない・・両者とも刺激物を通して逃避。

逃避を止めることは・・あなたが逃避して、あらゆる-酒、大師、儀式、知識、国への愛、望むものを・・自身から逃げる刺激物、感覚として利用・・と気づいているときのみ可能。

逃避の理由は明白・・私達自身、状態、外部的・内部的にも不満・・多くの逃避を持っている。原因を発見するとき、逃避、飲酒、を理解する、解決するだろうと私たちは思う。逃避の原因を知るとき、逃避するのを・・確かに止めない。妻と、他人と、正しい関係を確立し、苦痛の葛藤を除去するときのみ、私は飲酒をやめる。

私の自己達成の中に欲求不満があり、求めている限り逃避がある。私が政治家、指導者、何かであることを望んでいる限り、欲求不満を招いて・・苦痛なので、逃避を捜す。それが飲酒、大師、儀式、政治家になることのいずれにせよ-何であるかは問題ではない、すべて同じもの。

私は家族、名前、財産、観念を通して、自身を永続させようと望む・・単に観念、満足、興奮を与える観念にすぎない・・心は執着。心が達成を求める限り、私自身に重要性を与える限り、あらゆる思考、反応の中心である限り、欲求不満・苦痛がある、その苦痛から、無数のやり方を通して、私たちは逃避しようとする。逃避の手段は同じようなもの。

重要なことは、自己に達成を求めている限り、悲惨、争いがあるに違いないことを理解すること。悲惨は、自己が重要である限り、避けることができない。

自分自身の理解は絶え間のない用心深さを必要-結論、しがみつける何かでなく、思考と感情のあらゆる動きについての絶え間ない気づき。自分自身を全体的過程として理解することの中でのみ、私たちは私たちが持つ無数の問題を解決する。』(K)

礼拝、儀式は、飲酒違わない・・両者とも刺激物を通して逃避。知識、家族、名前、財産、観念・・私自身に重要性・達成を求める限り・・欲求不満・苦痛・悲惨、争いがある。それは、いまの社会・世界の・・そして教育の、政治の、科学技術の、文化の、スポーツの世界に見ることができる。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1250 2020/8/17

『 そしてなぜ私たちは内側で安全を望むのでしょうか。外側で、物質的に安全であることは不可欠です。さもなければ私たちは生きることができません。もしも私が普通の食事を持たず、あなたも持たないなら、あなたと私はここにいることはできないでしょう。私たちは外的な安全を持たなければなりません。しかし私は、私たちが外的な安全を内的拡張の、貪欲の内部的な追求の手段として使用するとき、私達の安全は否定される、破壊されると感じます。なぜなら、そのとき、私達は物を必需品として用いるのではなくて、それらに心理的意味を与えるからです。財産はそのとき私達にとって心理的な生き残りの手段となります。何といっても、称号、地位、位階、富は心理的生き残り、心理的確実性、安全の手段として用いられているのではないでしょうか。そして物を通じて心理的安全を求めている限り、物に関して争いがきっとありますね。

内的に安全、心理的に確実であることなしに、関係の中に生きることが出来るでしょうか。何といっても、それが「確実」、「安全」という言葉で私たちが言っていることです。私たちの大抵は、物理的安全から離れて、心理的安全を求めているのではないでしょうか。私達は環境に依存する、その他で、多かれ少なかれ、物理的安全を持たなければなりません。しかし心理的な安全の必要があるでしょうか。私たちはそれを望みますか。私たちはそれを求めているけれど、私達の永遠の追求は内的に安全であることであるけれど、それは間違った過程、間違った生への接近ではないでしょうか。内的な安全があるでしょう。あなたと私はそれを望むかもしれません-しかし内的な安全というようなそんなものがあるでしょうか。私が関係の中で確かであることを望むとき-それが観念、人、物のどれとであろうが-私はその関係の中に安全を、その関係の中に内的な確実性を見つけるでしょうか。

そして、私が私の関係の中で安全であるなら、それは関係でしょうか。私があなたを妻やボス、友人として固く信じているなら-私の内的な安全の道具としてあなたを用いているという意味において固く信じているなら-私達の間に関係はあるでしょうか。私があなたを利用しているとき、あなたと私の間に何かの関係があるでしょうか。私があなたを私の内的な安全の手段として利用している限り、私達の関係は何なのでしょうか。あなたは私にとって、ただの役に立つ道具であるだけです。私はあなたに関係していません。あなたは使われるべき一個の家具です。すなわち、内的に、心理的に、私は貧しく、空虚で、不充分です。それゆえ、私はあなたを、私自身を覆い隠す手段として利用します。そしてそのような利用を私達は愛、あるいはあなたの好むもの、と呼ぶのです。

この逃避を、財産や、人々、観念との関係のどれであろうが、私達は関係と呼ぶのです。そして、確かに、そのような関係は不可避的に葛藤、悲しみ、災厄をつくり出すに違いありません。そしてそれが私たちが生きている状態です-私達自身の内部の貧しさを覆い隠す手段として、人、物を利用して。したがって、私たちが利用するものが最重要になります。人、所有物、観念、信念、が最重要になります。なぜなら、それらなしには私達は途方に暮れてしまうからです。したがって、もっと知識、もっと人、もっと物。しかもなお、私達のあるがままを、私達は決して理解してきていません。そして心理的安全を求めている限り、私達は決して私達自身を理解しないであろうと私には思われます。しかし、私達が人々、物を、私達自身からの私達自身の逃避のために利用しているということに気づいているとき、その逃避に気づいていることが、確かに異なった関係をもたらします。そのとき人や、観念、物はもはや本質的に重要ではありません。したがって、私達は物、人にそのように愛着しません。そのとき財産の問題への聡明な接近があります。しかし、私が私の内部の貧困を覆い隠す手段として財産を利用している限り、私はそれに聡明に接近することができません。なぜなら、物に愛着している限り、私達はそれらの物なのです。財産に愛着している限り、あなたは財産なのであり、精神的な存在ではないのです。それはただのたくさんのごまかし話しです。あなたが信念に愛着している限り、あなたはその信念です。あなたが人に愛着している限り、あなたはその人です。そして私達自身の中で空虚であり、私達自身の中で何ものでもないので、私達はそんなにも必死に愛着するのです。その空虚を恐れて、自己投影された外部の物、観念、理想に私達はしがみつくのです。

それゆえ、この関係の問題は表面的に、あるいは言葉の上で理解したり、あるいは本の中で読むことはできません。だがその意味全体は、その複雑さとその途方もない深さを含んで、私たちがお互いとの関係に気づいているときのみ理解することができます。そしてその関係のあるがままが、社会なのです。自分自身を理解することなしに単に友愛を語ることは意味を持ちません。あなたは協会に参加し、友愛のためのグループを作るかもしれません。しかし、協会や人や物をあなたの内部の安全の手段として用いている限り、あなたはきっといっそうの葛藤、いっそうの錯覚、いっそうの苦痛を世界の中につくり出すはずです。それが起こっていることです。ちょうど自分自身の貧しさを覆い隠し、自己を特定の国に同一化させる手段として用いられた国家主義が戦争に通じるように。

重要なことは自分自身を理解すること、そして自分自身に直面することです。私たちが避けているあの貧困、私たちが皆避けているあの空虚さに。そしてそれを私たちが理解する、非難なしに、実際にそれを経験するとき、十分にその空虚さに関係するとき、そのときのみ、超えること、そして真実とは何か、神とは何かを発見することの可能性があるのです。』(K)


私の学習経過:

『 なぜ私たちは内側で安全を望むのか。外側で、物質的に安全であることは不可欠。

外的な安全を、貪欲の内部的な追求の手段として使用するとき、私達の安全は否定、破壊される。

地位、位階、富は心理的生き残り、確実性、安全の手段・・物を通じて心理的安全を求める限り、争いがある。

私達は心理的な安全を求めているが、間違った過程、接近ではないか。

私があなたを内的な安全の手段として利用する限り、私達の関係は役に立つ道具であるだけ。私はあなたに関係していない。

内的、心理的に、私は貧しく、空虚で、不充分。私はあなたを、私自身を覆い隠す手段として利用し、愛、好むものと呼ぶ。

私達自身の内部の貧しさを覆い隠す手段として、人、物を利用し、所有物、観念、信念、が最重要になる。

私達のあるがままを、決して理解していない。心理的安全を求めている限り、私達は決して私達自身を理解しない。

私達が人々、物を、私達自身の逃避のために利用していることに気づいているとき、異なった関係をもたらす。

私が内部の貧困を覆い隠す手段として財産を利用する限り、聡明に接近することができない。なぜなら、物に愛着している限り、私達は物なのです。財産に愛着する限り、あなたは財産であり、精神的な存在ではない。

あなたが信念に愛着している限り、あなたはその信念です。あなたが人に愛着している限り、あなたはその人です。
私達自身の中で空虚で、何ものでもないので、私達はそんなにも必死に愛着するのです。空虚を恐れて、自己投影された外部の物、観念、理想に私達はしがみつくのです。

関係の問題は表面的に、言葉の上で理解し、本の中で読むことはできない。その意味全体は、複雑さと途方もない深さを含んで、私たちがお互いとの関係に気づいているときのみ理解できる。その関係のあるがままが、社会なのです。

自分自身を理解することなしに友愛を語ることは意味を持たない。協会に参加し、友愛のグループを作るかもしれないが、協会や人や物をあなたの内部の安全の手段として用いている限り、いっそうの葛藤、錯覚、苦痛を世界の中につくり出すはず。

重要なことは自分自身を理解すること。私たちが避けている貧困、空虚さ・・それを私たちが理解する、非難なしに実際に経験する、十分に空虚さに関係するとき、そのときのみ、真実とは何かを発見する可能性がある。』


・・・人・物・財産・・知識・信念・・文化・科学技術・発展・・・・・

私たち人間とは、社会とは・・そして、教育・成長とは何なのか・・・。そんなことを、あらためて考えてしまう・・いまの現実があります。社会の、世界の動きと・・地球の歴史があります。

人は、社会は、教育は・・そして、新聞紙面・TV画面・ネットに映し出される現実は、人々の表情は・・どうなっているのか・・・。

物・金・財産・知識・信念・・そして、政治は、世界は・・どのように動いているのか、歴史的に積み重ねてきた文化・文明・学問は・・何なのか・・・改めて考えさせられます。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1249 2020/7/20

『 あなたは「歴史に影響するように、個人が何をすることができるでしょうか」と言うかもしれません。彼の人生で何をすることができるでしょうか。あなたが戦争を即座に止めるだろうとか、様々な人の間により良い理解をもたらすだろうとは私は思いません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでいます。私の直接の関係の世界の中に-それが私の上司、妻、子供、あるいは隣人とであっても-その場所で、少なくとも、私はある改革、ある変革、ある理解をもたらすことができます。私はロシヤ人や、ドイツ人や、インド人に理解をもたらすことはできないかもしれません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでおり、ある平和、ある幸福、ある愛、愛情、その他もろもろがあり得ます。そして私は思うのですが、それは世界に大きく広く影響しないかもしれないけれど、少なくとも私は核、異なった価値、異なった理解と意義の中心であり得ます。そしておそらくそれは世界に徐々に変革をもたらすでしょう。

しかし、確かに、私達は基本的に世界の変革にかかわっていません。なぜなら私のすること、あなたのすることはあまり影響を持たないでしょうから。しかし私が貪欲であることを止めることができるなら-表面的でなくて深く-、私が野心的であるのを止めることができるなら、そのとき、たぶん、私は新しい息吹、新しい理解を生にもたらすことができるでしょう。そして確かに、それはもっとも効果的で直接の行為ではないでしょうか-自己のなかに変容、根本的な変化をもたらすために。というのは何といっても、それがすべての大きな運動が、個人で、自分自身で、始められるやり方であるからです。それゆえ、国に対する私の関係-あるいはあなたの関係、個人の関係-は、私が私自身の全過程を理解するときのみ、理解されることができ、そしてその関係の中の変化がもたらされるのです。

どうか、「これは幼稚で愚かだ。それは世界に影響しない」と言って、これを無視しないでください。何が世界の中で根本的影響を持っているのでしょうか。大衆運動。それとも、その根本的影響は自己中心的、利己的、自己閉鎖的でない、彼らの利益と野心を投影しない少数の創造的な人たち、本当に利己主義から自由である少数の人たちによってもたらされるのでしょうか。

それゆえ、これを理解するためには、人は過程を知らなければなりません。行為の中の、それは関係ですが、自分自身に気づいていなければなりません。私たちのあるがままを理解することの中で、私達は私達に立ちはだかる多くの問題に対する解答を見出すでしょう。私達のあるがままを表面的に、心の上部のレベルで理解するだけでなく、自己の内容全体を知って。隠れたものも明らかなものも。表面的なレベルも私達の意識の多くのレべルも。現在はそれに私達は気づいていないのです。たぶん私達は稀な瞬間、それらに気づくでしょう。しかし、全ての隠れたものを意識の中にもたらし、それで個人的な、利己的な、狭量な意図と追求を解消し、それによって正しい関係を確立することは、もっとも重要なことと私には思われます。それが私が価値があると感じる唯一のことです-討論し、話し、生きている間に。表面的だけでなくて内的に、どうやって貪欲から自由になるかが。なぜならそれが葛藤の原因の一つであるからです。そうではないでしょうか-貪欲、物、所有を求めるだけでなく、力を求める貪欲、知識を求める貪欲、名声を求める貪欲。そして貪欲を理解するためには、確かに、多量の注意が必要です-誰が貪欲であるか見出すとか、貪欲でない人のパターンを模倣するためではなく、貪欲であるものとしての自己に気づいているため、そしてその貪欲のあらゆる含蓄を追い、理解するためには。なぜなら、明らかに、貪欲は社会的影響を持っているからです。貪欲であり、力を追求している個人が、同じように力、地位、名声を求めて貪欲であるグループや国をもたらすからです。それは戦争を引き起こします。

貪欲から自由であること、そして貪欲の結果、暴力の結果に他ならない社会の中に生きることが出来るでしょうか。私はその質問は直接の経験を通してのみ答えることができると思います。言葉の上だけで貪欲から自由であろうとするのではなくて、私達が非貪欲の経験、本当の経験、を知るときに。何といっても貪欲はそれ自身を非常に多くのやり方で表現します-真理への貪欲、地位への貪欲、幸福への貪欲、そして物への、安全への貪欲。外部の物理的安全は、内部の心理的安全がないとき、否定されるのでしょうか。各人が彼自身の安全を追求することなしに、この世界に生きることはできないでしょうか。何といっても私達一人一人が物理的安全より、ずっと心理的安全を求めています。私達は所有物、物、外部の安全を、心理的安全の手段として使います。物理的必要が心理的必要性になるとき、そのときその心理的必要性は外部の安全を破壊します。私たちはこれを考えぬくことができます-それは非常に明白です。私が、物、所有物、財産を自己表現の手段として、攻撃的な、自己投影の生存の手段として用いている限り、そのとき、必要は最重要になります。そのとき、物、財産、はもっとも支配的になります。なぜなら、私は物、財産を私の内部の心理的安全のために使用しているからです。』(K)


私の学習経過:

『 「歴史に影響する・・個人が何をできるか」と言う。世界の中で、私はある改革、理解をもたらし、平和、幸福、愛情があり得る。世界に大きく広く影響しないが、異なった価値、理解と意義の中心であり得、世界に徐々に変革をもたらす。

私達は基本的に世界の変革に影響を持たない。しかし私が貪欲、野心を止めるなら、新しい息吹、理解を生にもたらす。国に対する私の、あなたの、個人の関係-は、自身の全過程を理解するときのみ、理解でき、関係の中の変化がもたらされる。

理解するには、過程、行為、関係―自分自身のあるがままを理解する中で、多くの問題に対する解答を見出す。個人的な、利己的、狭量な意図と追求を解消し、正しい関係を確立することは、もっとも重要なこと・・私が価値があると感じる唯一のこと。

物、所有、力、知識、名声を求める貪欲を理解するには、多量の注意が必要。貪欲で、力を追求している個人が、力、地位、名声を求めて貪欲であるグループや国をもたらし・・戦争を引き起こす。

貪欲から自由で、貪欲、暴力の結果の社会の中に生きることが出来るか。各人が彼自身の安全を追求することなしに、この世界に生きることはできないか。

私達は所有物、物、外部の安全を、心理的安全の手段として使う。物理的必要が心理的必要性になるとき、外部の安全を破壊する。私は物、財産を私の内部の心理的安全のために使用しているから。』

社会の、世界の、そして私たちの生活を支配している・・物や知識を求める所有から、地位・名声・権力まで獲得しようとする貪欲・野心を育てる子育て・教育・競争社会があって・・・いまの社会の暴力・破壊・戦争・・の背景に見えてくる。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1249 2020/7/20

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1248 2020/6/17

『 たぶん私たちの大部分は確定した見解を持っています。あるいは確定した結論に達しており、それから外れること、あるいは別の観点から見ることは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は非常に痛ましく生きており、苦しんでいるからです。そして私たちは特定の見解に達しており、それを変えるのは困難であることを見出します。そして、ともかくも他の人の言うことを聞くなら、私達自身の結論、私達自身の経験、私達自身の知識というスクリーンを通して聞くのです。それで他の人の言うことを十分かつ完全に理解することは極めて困難です。それで、提案してよろしければ、私たちはしばらくの間、少なくとも今朝の間、私たちの特定の結論と見解を脇において、私たちに立ちはだかる問題を共に熟慮しようとしなければなりません。結論を欲しがること、種々の問題に答えを欲しがることが私たちの抱える難しさであるでしょう。しかし、生じるそれぞれの問題を十分聡明に、それは結論によって束縛されることなしに、確定した意見なしにということですが、調べることができるなら、そのとき、たぶん、問題を十分に、統合的に理解できるでしょう。

私たちの生における問題の一つは、個人と彼の国家に対する関係の問題ではないでしょうか。たぶん、個人の過程全体を理解できるなら、そのとき、私たちは、一人や二人の人に対してではなく、多数、大衆、国、全体としての人々に対しての私たちの関係を理解できるでしょう。そこで国家と個人の間のこの分割は誤りがあると私には思われます。なぜなら、何といっても、国家が、私たちがそうであるものであるように私たちはするからです。私たち一人一人がそうであるものを私たちは投影します。これは非常に単純な哲学、非常に単純な観念であり、調べる価値がないように思われるかもしれません。なぜなら、私たちの心は非常に複雑であり、私たちは非常にたくさん読んでおり、非常に聡明で、利口で、そのため問題を単純に考えることができないからです。しかし、この高度に複雑な問題を非常に直接かつ単純に考えなければならないと私には思われます。なぜなら、何といっても、複雑な問題はそれに否定的に近づくときのみ、十分に理解することができるからです。そして個人と彼の過程を理解することの中で、私たちはたぶん個人の国家に対する、あるいは大衆に対する、あるいは他の個人に対する関係を理解するでしょう。

それゆえ、私にとっては、国家に対する個人の関係の問題は、私たちが個人の過程を理解するときのみ理解することができるのです。なぜなら、個人なしには、国家はないからです。

大衆というようなものはありません。それは種々の目的、搾取などに都合のよい政治的手段です。そしてまた、私たちの大抵にとっては、大衆について話すとき、それは人々を始末する便利なやり方です。なぜなら、個人を見ること、他人を見ることは多くの注意、思考、熟慮を必要とするからで、私たちはそれを注ぎたくありません。それゆえ、私たちは彼等を大衆と呼びます-そして大衆は私達自身、あなたと私、です。

社会と呼ぶ投影全体を、そのあらゆる複雑さを含めて理解するためには、確かに私たち自身を理解しなければなりません。しかし私たちの大抵は私たち自身を理解するのが気が進まないのです。なぜなら、それはつまらない飽き飽きする仕事だからです。そして私たちはそれはあまり意義を持っていない、自分を理解することはどこへも通じないと思います。ところが、もし私たちが社会の中にある改革、ある改変をもたらすように働くことが、手伝うことができるなら、たぶん、それは価値があるでしょう。そしてまた、自己を理解することの中で私達は不可避的に自己中心的に、自己閉鎖的になるという印象があるのです。

確かに、自分自身および、個人がいまそうであるものの過程全体を十分に理解することは、孤立でなく、隠遁でなく、関係を理解することを必要とします。なぜなら、何といっても、すべての行為は関係であるからです。関係のない行為はありません。そして、他人との私の関係の中に敵意、貪欲、羨望がないなら、葛藤をもたらす種々の原因のすべてがないなら、確かに、私はその関係の結果である社会を創造するでしょう。それゆえ、私自身を理解することは自己中心的過程ではありません。それどころか、それは関係の気づきを必要とします。したがって、関係は私が私自身を発見する、私自身を見る鏡です-それが一人の人との関係であろうと、多くの人との、社会との関係であろうと。そして社会の中に抜本的な変革を望むなら、私は明らかに私自身を理解しなければなりません。

これはむしろ、あまり意義がなく、子供じみて幼稚に聞こえるかもしれません。しかしそれはそう簡単でも、そんなに容易に払いのけられてしまうとも私は思いません。』(K)


私の学習経過:

『 私たちは確定した見解・結論に達して、別の観点から見ることは非常に困難。他の人の言うことを、自身の結論、経験、知識を通して聞くので、十分・完全に理解するのは極めて困難。

特定の結論と見解を脇において、問題を共に熟慮しなければならない。生じる問題を結論なしに調べるなら、問題を十分に統合的に理解できる。

個人の過程全体を理解できるなら、多数、国、全体の関係を理解できる。私たちの心は非常に複雑、たくさん読み、非常に聡明、利口で、問題を単純に考えることができない。高度に複雑な問題を直接・単純に考えなければ。複雑な問題は否定的に近づくときのみ、十分に理解できる。

社会と呼ぶ投影全体を、理解するには、私たち自身を理解・・気が進まない、飽き飽きする仕事・・意義を持たない、どこへも通じないと思う。社会の中に改革をもたらすように働くことができるなら、価値がある。

自分自身、個人の過程全体を理解することは、孤立、隠遁でなく、関係を理解する必要・・すべての行為は関係であるから。関係のない行為はない。他人と私の関係の中に敵意、貪欲、羨望、葛藤の原因のすべてがないなら、私は関係の結果である社会を創造する。それゆえ、私自身を理解することは自己中心的過程ではない。それどころか、関係は私が私自身を発見、私自身を見る鏡-一人であろうと、多くの人、社会との関係であろうと。社会の中に抜本的な変革を望むなら、私は明らかに私自身を理解しなければならない。』

自分の外との、他者との関係から・・自分というものが見えてくる。知識とか経験なしに、つまり過去の記憶を捨てて、現在の何もない「現在形」の心の中から外部を「新しく」見る、聴く、知る・・ということのようですが・・これは、教えられ、知識を身に着けるほど、成長するほどに・・困難なことのように思われます。関係は自分を見る鏡であり、その中から「自己認識」が育てられるようです。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[2] 1949年10月9日】  M1248 2020/6/17

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1247 2020/5/17

『Q: 偏見とは何でしょうか。どうやってそれを本当に克服できるでしょうか。あらゆる偏見から自由な心の状態はどんなでしょうか。
A: 偏見を克服できるでしょうか。何かを克服することはそれを何度も繰り返して再度征服することです。偏見を本当に克服できるでしょうか。あるいはこの克服は、単にひとつの偏見の、別のものでの置き替えに過ぎないのでしょうか? 確かに、私達の問題はどうやって偏見を克服するかではありません-なぜなら、そのとき、私達は単に置き替えを求めているに過ぎないからです。それは偏見の全過程を理解することです。偏見の包含するものは何であるか、単に言葉の上、心の言葉のレベルでなくて根本的に、深く。そのとき偏見から自由である可能性があります。しかしひとつの偏見を、あるいは種々の偏見を克服しようと努力しているなら、そのときあなたは単にあなたが偏見と呼ぶ苦痛、あなたが偏見と呼ぶ妨害物を克服しようとしているに過ぎません。

さて、偏見とはどういうことでしょうか。どういう時に偏見からの自由があるのでしょうか。どうやって偏見は生じるのでしょうか。一つの道は、明らかに、いわゆる教育を通してです。歴史の本は偏見に満ちています。あらゆる宗教文学はそれに満ちています-教え込まれた信念。そしてその信念は、それは子供の頃からつくり出され、組み立てられるのですが、それが偏見になります。あなたはこれであり、私はあれです。あなたはプロテスタントで、私はヒンドゥー教徒です。したがって、私の信仰とあなたの信仰は衝突します。あなたは私を改宗させよう、私を転向させようとします。そして私は同じ事をしようとしています。あるいは私達は「寛容」です。あなたはあなたの信仰を保ち、私は私のを保ちます。そして仲良くあろうとします。すなわち、私は私の偏見の要塞に住み、あなたはあなたの偏見の要塞に住みます。そして私たちはそれを大目に見、友達であろうとします。それは「寛容」と呼ばれますが、本当は不寛容です。それは友達であろうとすることの本当にもっともばかげた形です。どうして友達になれるでしょうか、どうして本当の愛情が持てるでしょうか。私は私の偏見の中に生きており、あなたはあなたの偏見の中に生きているなら。

それで、私達は偏見の種々の原因を知っています-故意に養成された無知は、教育を通じて、環境の影響を通じて、宗教などなどを通じて偏見をつくり出します。そして排他的でありたい、私達の信仰の中に保護されていたいという私達自身の欲望があります。確かに、どうやって偏見が生じるかは非常に明白です。そしてまた、種族や国家の見地で考えるのを私達は好みます。なぜならそれは、人々を個人的な人間として取り扱うよりも努力を要しないからです。あなたが偏見に満ちているとき、人々を取り扱うのはより容易です。その人たちをドイツ人、インド人、ロシヤ人、黒人、あるいは何にせよそう呼ぶ時、あなたは問題を解決したと思うのです。しかし一人一人の個人的な人を見ることは、多大の思考、骨折りが必要です。そして私たちはそうしたくないので、「さて、彼等をある名前で呼ぼう」と言い、それによって彼等を理解したと私達は思うのです。

それで、なぜ偏見が生じるか、どうやってそれらが私達自身の自己防衛のために作られるかを私たちは知ります。それは孤立の過程です。憎むこと、偏見を抱くこと、限定されていることはずっと容易です。そしてそれが私たちの大部分の現状です。あなたはこれやあの協会に属します。それは偏見の一形態です。あなたの経験が私のに優る、あるいは私のものと同じ様に良いとあなたは信じます。それゆえ、あなたの経験の中に引き止められます。こういったことすべては偏見の形、排除の形、あなたが非常に注意深く養成してきた自己防衛の形ではないでしょうか。どうやってそれらを克服できますか。そうするとき、あなたはそれらの置き換えを見出すでしょう。というのはあなたが偏見を持たないなら、あなたは極度に傷つき易く、敏感であり、ずっと多く悩むからです。それゆえ、私達自身を守るために私たちは壁を急いで建てます。自己投影されたものか、あるいは私達のために他の人によってつくり出されたもの、それを私たちは受け入れるのですが、そのどちらか。そして偏見を克服しようとすることは、もっと快適で、もっと教育的で、もっと洗練されている他の防護物を見つけることです。しかしそれらはなお偏見です。

それゆえ、偏見から自由であることは不確実の状態の中に生きることです。不安定の状態の中に生きることです。さて、不安定とはどういうことか理解しなければなりません。明らかに、道理に合った物理的な安全がなければなりません。さもなければ生きることがそもそも不可能です。しかしその物理的な安全は、あなたが心理的安全を求めているとき否定されるのです。そしてそれが私たちがしていることです。私たちが心理的に安全であろうと、国家主義を通じ、信念を通じ、社会の特定の形、左翼あるいは右翼を通じて望むとき-外部の不安定をつくり出すのは、この心理的欲望、確かであろう、安全であろう、頼っていようというこの内的欲望です。そしてそれは心が自己防衛的反応、内的な自己防衛的反応から自由であるときのみです-そのときのみ、偏見から自由である可能性があるのです。

「偏見から自由である心の状態はどんなでしょうか」が次の質問です。なぜあなたは知りたいのでしょうか。あなたはそれを経験するために、その結果それを標準に、達成すべき何かにするために知りたいのだと思います。あるいはあなたは自由であるとはどういうことか、心が自己防衛的な反応から自由であるとはどういうことか理解したいのです。それを見出すためには、あなたはそれを直接経験しなければならないのではないでしょうか-単に私の言葉や他人の言葉を聞くのではなく。すなわち、あなたはあなた自身の思考と感情の過程に気づいていなければならないのではないでしょうか、あなたが、たまたまそれを好むときだけでなくて何時も。それは次のことを意味します。すなわち、偏見から自由であるためには-偏見は養成されたにせよ、本能的にもたらされたにせよ、自己防衛的反応です-、確かに、あなた自身の全体の過程についての気づきがなければならないということです。だが偏見から自由である心の状態はどうであるかについて思索することは、確かに無駄ではないでしょうか。それゆえ、私たちがすることができるすべては、心が自由であるときの心の状態はどうであるか思い巡らすことではなく、私達自身を理解することです。そして私達自身を理解するためには、その中に強制のない、正当化や非難のない気づきがなければなりません-人はどんな形の恐怖もなしに、気楽に気づいていなければなりません。その気づきの中に思考と感情の運動の展開があります。そしてそのとき、心が静かなとき-静かにさせられるのではなく-、始めも終りもないものを発見する可能性があるのです。』(K)


私の学習経過:

『Q: 偏見とは何か。どうやって克服できるか。あらゆる偏見から自由な心の状態は。
A: 偏見を克服できるか。偏見の全過程を理解する・・偏見から自由である可能性。

偏見はどうやって生じるのか。
教育・歴史・宗教文学は偏見に満ちて、教え込まれた信念は、子供の頃から偏見になる。私とあなたの信仰は衝突。

排他的、信仰の中に保護されたいという自身の欲望。種族や国家の見地で考える。

なぜ偏見が生じ、自身の自己防衛のために作られるか・・孤立の過程。憎む、偏見、限定は容易―現状。
これやあの協会に属し・・偏見の一形態。経験が優る・・すべて偏見、排除、自己防衛の形ではないか。

偏見からの自由は不確実・不安定の中に生きること。心理的安全を求めているとき否定される。

心理的に安全で、国家主義、信念を通じ、社会の特定の形―左翼・右翼を通じて望むとき-外部の不安定は、心理的欲望、確か、安全、頼っていようという内的欲望。心が自己防衛的反応から自由であるときのみ-偏見から自由である可能性がある。

なぜあなたは知りたい・・経験、達成すべき何かにするために知りたいのだ。自由、自己防衛的から自由とは・・見出すには、直接経験しなければならない-他人の言葉でなく。

自身の思考と感情の過程に気づいていなければならない。好むときだけでなく何時も。偏見から自由であるには、自身の全体の過程の気づきがなければならない。

私たちができるすべては、心が自由であるときの心の状態はどうであるか思い巡らすことでなく、私達自身を理解すること。

私達自身を理解するには、強制・正当化・非難ない気づき-どんな形の恐怖なしに。気づきの中に思考と感情の運動の展開がある。心が静かなとき-静かにさせられるのではなく、始めも終りもないものを発見する可能性がある。』


偏見は、子育て・教育・知識・経験・宗教によって形作られ、固定化し・・自己の外部を見る目を曇らせて、より強化された観念・信念は、目的・地位・達成・成功のために、他者との対立・争い・暴力を生み出す。社会の破壊の根元には・・指導者の姿が見えてくる。

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1247 2020/5/18

「自我の終焉」(K)から学ぶ 【1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日】  M1246 2020/4/17

『Q: 別の戦争があるでしょうか、どれほどのうちに。
A: あなたは私から予言を望みますか。それであなたの投資を守ることが出来ますか。さて、なぜ私たちはそのような質問を尋ねるのでしょうか。戦争になろうとしているかどうか、あなたはわからないのでしょうか。新聞からでなく、政治的指導者からでなく-というのは、結局、あなたはあなたの混乱にしたがって、指導者を選ぶからです。混乱すればするほど、あなたはますます多くの指導者を持ちます。あなた自身の中で、混乱がより少なくより明確であればあるほど-それはあなたの学習を通じてではありません-あなたはより指導者を必要としません。それで、あなたは戦争になろうとしているかどうか、独力でわからないのでしょうか。

戦争とはどういうことでしょう。戦争はただ劇的な、スリルある流血の惨事ではありません。それは最終段階です。しかし、私達は絶えず私達自身と、それゆえ環境と、隣人と、戦争していませんか。確かに、私達が戦争していると教えられる必要はありません。私達がそうであるもの、私達は世界をそうあらしめるのです。私達が国家主義的である限り戦争は不可避です。あなたが英国人で私がインド人である限り、確かに戦争があるでしょう。国境、統治政府、別々の軍隊がある限り、きっと戦争があるはずです。社会的経済的区別、異なるカーストと階級の排除がある限り、きっと戦争があるはずです。

私達は皆これを知っています。多分あなたは一二の歴史の本を読み、歴史の表面的知識を持っているかもしれません。これらは戦争の明白な原因です。ひとつの国が他の国に勝りたいと思い、一つの団体が他の団体に劣ると感じるとき。偏見があるとき-白と黒と褐色と紫、あるいは何であっても。どうやってこういったものが生じると思いますか。明らかに、私たちの現状を、私達は守ります。世界は私達自身の、私達の自己投影の結果です。それゆえ、あなたは『寛容』であるかもしれないけれども、あなたが国家主義的である限り、あなたの信念の中で排外的である限り、戦争はあるでしょう。寛容は利口な人々によって案出された、心に属するものです。愛するとき、「寛容」にしません。あなたと私がもはやカースト、階級に束縛されていないときのみ、私達が何かの形の宗教、組織された信仰に、それが小さくても大きくても、束縛されていないときのみ、私達がもはや権力に、地位に、権威に、安心感に貪欲でないときのみ-そのときのみ平和があるでしょう。平和は立法の結果ではありません。平和は国連によってもたらされるのではありません。どうして外部の法律があなたを平和にできるでしょうか。どうして外部の強制があなたを愛させることができるでしょうか。そしてあなたを平和にすることを、あなたを親切に、貪欲でないようにすることを外部の権威に頼るなら、そのときあなたは決して生じることのない何かを当てにしているのです。それゆえ、戦争は-物理的レベルの上であろうが、意識のさまざまなレベルの上においてであろうが、それはまったく同じことです-、葛藤は、あなたと私が国家主義を通して、信仰を通して、錯覚を通して、私達自身の特定の安全を目指して努力している限り、不可避です。私達は単に葛藤を私達自身の中に、それゆえ外部に永続させているに過ぎないのです。

私たちはみんなこれらの事を知っていますね。町角のあらゆる牧師がそれらについて話します。しかし私たちは平和的ではありません。私たちは貪欲であることをやめていません。金銭に貪欲でないかもしれませんが、より多くのものごと、より多くの力、一層の自己拡大に貪欲です。今、あるいはある将来の日に何かであることを望んで。この階層制的・社会的発達、あるいは内的な発達の感覚全体-このすべては明らかに、結局は葛藤に、戦争に、破壊と悲惨に帰着する過程を示しています。私たちは皆これらの事を知っていますが、依然として、なぜそれらが存在し続けるかを尋ねません。確かに、私たちがなぜ感じることを生きないのかを見出すことがずっと重要です。たぶん私達はそれらを感じないのです。たぶん私達は「戦争があるに違いない」と言って、単に言葉のレベルで生きているだけなのです。私たちはみな友愛を信じ、友愛を信じるさまざまな組織に参加するでしょう。しかし内的に私たちは、事務所に腰掛けて戦争を計画する人と同様に堕落しているのです-なぜなら私達は家庭の中で、団体の中で、社会の中で、国の中で、何者かでありたいからです。私達は力を欲します。私達は何でもないものとしてあることに満足しません。なぜなら私達は外側の刺激、外側の見せ物を求める欲望によってひどく動かされてしまうからです。なぜなら内的に私達は空虚であるからです-そしてそのことを私たちはひどく恐れているのです。したがって、私達は観念にしろ物にしろ所有物を山積みにします。そして私達が何でもないものとしてあることに満足しているときのみ-それは根本的に、充足の、怠惰、無気力、愚かさの満足ではありません-、私達があるがままのもので満足しているときのみ、それはあらゆる逃避の途方もない理解を必要としますが、そのときのみ平和があるでしょう。』(K)


私の学習経過:

『 あなたは混乱にしたがって指導者を選ぶ。混乱が少なく明確であれば指導者を必要としない。

私達は絶えず自身、環境、隣人と、戦争していないか。私達が国家主義的である限り戦争は不可避。

世界は自己投影の結果。国家主義的、排外的である限り戦争。階級、信仰に束縛されない、権力、地位、権威に貪欲でないときのみ-平和。

階層制的・社会的発達、内的な発達の感覚全体-すべては葛藤、戦争、破壊と悲惨に帰着する過程。

私達は友愛を信じ、組織に参加する。内的に、事務所で戦争を計画する人と同様に堕落-家庭、団体、社会、国の中で、何者かでありたいから。

私達は力を欲し、外側の刺激を求める欲望に動かされ、内的に空虚であるから-ひどく恐れて・・観念、物、所有物を山積みにする。

私達があるがままのもので満足しているときのみ、あらゆる逃避の理解を必要とするが、そのときのみ平和がある。

世界は私達の自己投影の結果―権力、地位、権威、安心感に貪欲。

葛藤は、あなたと私が国家主義、信仰、安全を目指して努力している限り、不可避。

私たちは貪欲をやめていない―より多くの力、一層の自己拡大に貪欲。将来に何かを望んで。何者かでありたいから。

内的に空虚であるから-そのことをひどく恐れている。私達は観念、物、所有物を山積みにする。

私達があるがままのもので満足しているときのみ、逃避の途方もない理解を必要とするが、そのときのみ平和がある。


親も指導者も社会も、そして私たちも・・『内的に空虚』だから、『恐れている』から、『権力、地位、権威に貪欲』『すべては葛藤、戦争、破壊と悲惨に帰着する』・・それが人類の積み重ねてきた足跡なのだ。人間は、世界を、地球を・・いまも破壊し続けている・・・。

「自我の終焉」の源流を尋ねて 1949年ロンドン講話[1] 1949年10月2日  M1245 2020/03/15

『 そして私たちが永続的と称するものは何でしょうか? 私たちに永続的なものを与えてくれる、あるいは与えてくれると私たちが思っている、私たちの求めているものは何でしょうか? 私たちは永続的な幸福、永続的な満足、永続的な確実性を求めていませんか? 私たちは私たちを満足させそうな、果てしなく持続するものを望みます。私達自身からすべての言葉と句を取り除き、実際にそれを見るなら、これが私たちの望んでいるものです。私たちは永続的な快楽、永続的な満足を望みます-それを私たちは真理、神、あなたの望む何か、と称するのです。

それゆえ、私達は快楽を望みます。多分それは非常に粗野に述べているかもしれませんが、それが現実に私達が望んでいるものです-私達に快楽を与える知識、私達に快楽を与える経験、明日までになくならない満足。そして私達は種々の満足を試しました。それらはすべて消えていきました。そして今私たちは永続する満足を実在の中に、神の中に見出そうと思います。確かに、それが私達が皆追求していることです-利口な人も愚かな人も、何かを目指して努力している理論家も実際的な人も。そして永久的な満足があるでしょうか? 持続する何かがあるでしょうか?

さて、あなたが永続的な満足を、それを神とか、真理とか、あなたの望む何かと呼んで求めるなら-名前は問題ではありません-確かにあなたは求めているものを理解しなければならないのではないでしょうか? 『私は永久的な幸福を求めている』とあなたが言うとき-神、あるいは真理、あるいはあなたの好む何か-、あなたはまた探求している当のもの、探求者、追求者を理解しなければならないのではないでしょうか? なぜなら、永続的な安全、永続的な幸福というようなものはないかも知れないからです。真理はまったく違ったものであるかもしれません。そしてそれはあなたが見、心に描き、公式化できるものとはまったく違うと私は思います。それゆえ、永続的な何かを追求する前に、追求者を理解することが明らかに必要ではないでしょうか? 追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 『私は幸福を追求している』と言うとき、追求者は彼の追求の対象と違うでしょうか? 思考者は思考と違うでしょうか? それらは、別の過程というよりはむしろ、共通の現象ではないでしょうか? したがって、追求者が求めているものが何であるかあなたが見出そうとする前に、追求者を理解することが不可欠ではないでしょうか?

そしてそれが、自己を理解することがそんなにも不可欠で、そんなにも重要に私に思われる理由です。なぜなら自己の中に全部の問題と全部の論点があるからです。あなたは目的である、あなたは絶対である、あなたは神、これやあれであると規定すること、公式化することは明らかにあなたに逃避を与える言語化であり、それを通してあなたは確かに逃避するのです。あなたが実在のもの、あるいは虚偽のものであるとか、ないとか言うことは意味がありません。なぜなら、あなたは、どんなそのような思考のための基盤も持っていないからです。そしてあなたは、あなた自身を知っているときのみ、正しく考えることができるのです。あなた自身を知るためには、あなたは思考の一つ一つの運動に完全に気づいていなければなりません。そのとき、その気づきの中に、思考者が彼の思考と違っているかどうかを見出すでしょう。違っているなら、そのときどうやって思考を制御するかという多くの複雑な問題を私たちは持ちます。するとそのとき、あらゆる修養というばかげたことが始まります-瞑想、思考への思考者の接近。しかし彼の思考と違う思考者があるでしょうか? 思考者は、思考ではないでしょうか? それらは別個ではなく、単一の過程です。したがって私たちは思考です。思考を考えている思考者ではなく。そしてこれは直接の経験でなければなりません。思考者は思考であるというこの理解は。そしてこのような経験があるとき、そのとき、思考を超える可能性があるということが見えるでしょう。

なぜなら、結局、思考は記憶の反応にすぎないからです。そして記憶が作り出し、でっち上げ、投影するものは実在のものではありません。神は記憶の、教育の、この協会やあの協会に属することや、これやあれの教条を信じることの結果ではありません。それらは皆思考の結果にすぎず、それは記憶の、経験の反応です。しかし実在があるかどうか、神というようなものがあるかどうかを見出すためには、明らかに、最初に自己を理解することが不可欠であり、神があるかどうか、ないかどうかを思索することではありません。というのはあらゆる思索は時間の浪費であるからです。

それゆえ、私達一人一人に立ちはだかる問題を理解するためには、複雑であろうが、微妙であろうが、確かに、それらは私達の外部の、私達の思考の外部の何かではないということを理解しなければなりません-そうではなくて、これらの問題は私達自身の過程や結果なのです。世界は私達です。私達と分離しているのではなく。世界の問題は私の問題、あなたの問題です。別個に処理されるべき何かではなく。そしてこれらの問題を解決するためには-表面的ではなく、一時的ではなく、根本的に、永続的にですが-、自己の理解がなければなりません。そして自己を理解するためには、関係の中に無選択の気づきがなければなりません。そのとき、人は自分自身をそうである通りに知覚します。そしてそのとき、より十分に、深く、それに突っ込むことができます。しかしあなたのあるがままのものを、非難によって、近似、同一化によって蔽ってしまうなら、そのとき理解はなく、そのとき自己認識の過程は限定されます。自分自身を完全に、十分に、意識も無意識も理解する中でのみ、心が静かにさせられたのでなく静かであるときのみ-そのときのみ、実在を発見する、経験する、知る可能性があるのです。

それが瞑想が重要である理由です。しかし私たちの多くがふける瞑想ではありません。それはただの強制、あるいは観念への近似、あるいは心を静かにさせるための訓練にすぎません。それは子供じみています。なぜなら心を静かにさせることはできないからです。心を静かにさせるのは誰でしょうか? そのような努力は幻想につながります。それは他の時に取り扱いましょう。しかし強制を通じてではなく、何かの形の近似を通じてではなく、心が静かなとき、無理にさせられたのではなく、強いられたのではなく、順応させられたのではないとき、心がそれ自身の過程を理解することを通して本当に静かなとき-そのときのみ、永遠であるものを発見する可能性があるのです。そのとき真理を求める必要はありません。真理を求めることは真理を否定することです。なぜなら真理は得ようとして得られることがないからです。それはあなたに生じなければなりません。そしてそれは心が静かなときのみ生じることができます-静かにさすのではなくて静かなとき。そして自己認識を通じてのみ、静かさがあります。平安があります。静寂があります。』(K)


私の学習経過:

『 永続的と称する-幸福、満足、確実性。 持続する-真理、神、望む何か。
知識、経験、満足。満足はすべて消え、神の中に見出そうと思うが・・あるのか。

求めるものを理解しなければならない・・ 探求者、追求者を。
永続的な安全、幸福はないかも知れない・・真理はまったく違ったものかもしれない。

永続的な何かを追求する前に、追求者を理解することが必要。 追求者は対象と違うか。 思考者は思考と違うか・・共通の現象ではないか。追求者を理解することが不可欠。

それが、自己を理解することが不可欠・重要に思われる理由。自己の中に全部の問題と論点がある。あなた自身を知っているときのみ、正しく考えることができる。

あなた自身を知るには、思考の一つ一つの運動に完全に気づいていなければならない。 思考者は、思考ではないか。 私たちは思考です。直接の経験でなければならない。このような経験があるとき、思考を超える可能性がある。

なぜなら、結局、思考は記憶の反応にすぎないから。記憶が作り出し、投影するものは実在のものではない。神は記憶の、教育の、協会に属し、教条を信じる結果ではない。皆思考の結果にすぎず、記憶、経験の反応。

実在が、神があるかどうかを見出すには、最初に自己を理解することが不可欠。世界は私達と分離しているのではなく、世界の問題は私の問題、あなたの問題。  

自己を理解するには、関係の中に無選択の気づきがなければならない。そのとき、人は自分自身をそうである通りに知覚する。より十分に、深く、突っ込むことができる。

あなたのあるがままのものを、非難、近似、同一化によって蔽ってしまうなら、理解はなく、自己認識の過程は限定される。自分自身を完全に、十分に、意識も無意識も理解する中でのみ、心が静かであるときのみ-実在を発見、経験、知る可能性がある。

心を静かにさせるのは誰か。 努力は幻想に。心がそれ自身の過程を理解することを通して本当に静かなときのみ、永遠であるものを発見する可能性がある。

真理を求める必要はない。心が静かなときのみ生じる。自己認識を通じてのみ、静かさ、平安、静寂がある。』

指導者とはいったい何なのか・・。過去の記憶・知識・経験で成り立っている。親から始まって、学校の教師、組織・団体・会社の指導者によって・・教育・指導・支配されている。
人は自分の目で見て判断し、行動する「自己の目」と「現在形の心」を失い、社会は知識・経験・過去の人間を生産し、対立・争い・暴力・腐敗・破壊・悲惨をつくりだしている。

注目ポイント:『思考は記憶の反応にすぎない。記憶が作り出し、投影するものは実在のものではない。』